小川未明が小学2年生向けに執筆した童話の自筆原稿(小川家所蔵・小川未明文学館提供)

 「日本のアンデルセン」とも呼ばれ、数々の作品を残した上越市出身の小川未明(1882〜1961年)。童話作家としてのイメージが強いが、当初は一般向けの小説も含む多彩なジャンルに取り組んでいた。執筆を童話一本に絞ったのは26年、突如発表した「童話作家宣言」からだ。宣言から今年で100年。未明にとっての宣言の意義、作家生活に与えた影響を考えた。

(上越支社・小林純)

2人の子を相次いで失い…悲しみ乗り越え創作専念

童話で示した「相互扶助の精神」

 小川未明の文壇デビューは1904年、早稲田大学在学中だ。旧制高田中学から早大の前身、東京専門学校に進学。在学中にNHK連続テレビ小説「ばけばけ」の登場人物のモデルとなっているラフカディオ・ハーンや坪内逍遥の教えを受け、小説家としてスタートを切った。

 徐々に童話も書くようになるものの、未明を顕彰する「小川未明文学館」(上越市)の調べでは、20〜30代前半は作品のほとんどを小説が占める。貧しい人々や労働者らを取り上げた作品が多かった。

 童話の比重が高まるのは30代後半。2人の子どもを相次いで失ってからだ。市文化振興課の一越麻紀・主任学芸員は「弱い人、子どものために書きたいという思いが高まったのではないか」と推察する。悲しみを乗り越えて創作に励み、代表作となる「赤い蝋燭(ろうそく)と人魚」「野ばら」などを次々と発表。童話雑誌も主宰するようになる。

 「童話作家宣言」は26年、未明が44歳の時だった。3月に日本童話作家協会の設立に参画したのに続き、5月に東京日日新聞で突然、「今後を童話作家に」と題した宣言を発表した。小説の筆を折り、童話に専念することにしたのだ。

 背景について、市民団体「小川未明研究会」代表で上越教育大の小埜裕二教授(64)は「未明は子どもの世界も大切にしていた。童話を通じて子どもたちに何かを訴えたいとの思いが強く、宣言はその延長線上にある」と分析する。

 具体的には「赤い蝋燭と人魚」では「金に目がくらんで態度を変える人間の弱さ」を、「野ばら」では「戦争の愚かさ」を浮き彫りにした。作品を童話に絞ることで、そのようなメッセージを未来を担う子どもたちに分かりやすく伝えられるほか、「童話であれば大人にも理解してもらいやすい」との考えもあったという。

 宣言後、未明が描く童話の世界は変化を見せる。それまでは「赤い蝋燭と人魚」のような幻想性や怪奇性をまとった世界観が目立ったが、以降は...

残り3192文字(全文:4175文字)