水俣病の研究に生涯をささげた医師、原田正純さんは10年前の2012年6月、77歳で亡くなった。地元紙の熊本日日新聞によると、患者たちは命日の11日、遺骨がまかれた熊本県水俣市の海に向かい、好きだった赤いバラを手向けた
▼原田さんは母親の胎内で有機水銀中毒になる胎児性水俣病を立証した。見舞いに来た胎児性患者に「やっぱり水俣病を治せなかったのは一番残念だった。医師なのにごめんね」と声をかけた。患者には最期まで優しかった
▼国や加害企業には厳しい姿勢で臨んだ。NHK熊本放送局は命日を前に生前のインタビューを放映した。「弱い人をね、いじめていく社会というのは、成熟した近代国家じゃない」「(水俣病は)病気と言うよりも、人間が作った犯罪、殺人」
▼水俣病は1956年、新潟水俣病は65年、それぞれ公式確認された。患者認定を求める裁判は今なお続く。原田さんは「もちろん未認定の方はそうだけど、認定された方も苦しんでいる。認定されたから解決じゃない」とも語ったという
▼原田さんは72年、「水俣病」という岩波新書を出した。ロングセラーとなり、英語や韓国語に翻訳されて問題を広く世界に伝えた。だが、当初は執筆をためらった
▼その理由が本につづられている。「本を書いている時間が惜しいとも思った。私にできることといったら患者を診察するしか能がないのだから」。弱い人に寄り添うとはどういうことか。深緑の表紙の本は、半世紀にわたり問い続けている。