柔らかな日差しが降り注ぐようになってきた。「水温(ぬる)む」という言葉を思い浮かべる。優しい響きのこの言い回しは、春の季語。水温が上がれば生き物も動き出す。太公望がそわそわする季節の訪れである
▼佐藤賢一さんの新刊「釣り侍」は、武士の鍛錬として魚釣りが奨励された東北の藩が舞台だ。藩内では殿様から配下まで、刀の代わりに竿(さお)を握って魚との「勝負」にいそしむ。物語ではお家騒動が勃発するが、ここでも釣りが重要な役割を果たす
▼モデルになったのは、現在の山形県鶴岡市を拠点とした庄内藩である。歴代の藩主が湯治に赴く傍ら、磯釣りを楽しんだという記録が残る。藩士は城下から海まで長い竿を担いで歩き、荒波が押し寄せる磯に立ったらしい
▼クラゲの展示で有名な鶴岡市立加茂水族館で、伝統的な「庄内竿」の展示を見たことがある。選び抜いた竹を使った、継ぎ目のない延べ竿だ。武士の魂である刀と同等に扱われた。刀を竿に持ち替えて、一心に魚信を待つ姿が目に浮かぶ
▼刀でなく竿を振るう釣りが奨励されたのは、太平の世だったからだろう。長岡花火を目にした画家の山下清が残した言葉に思いをはせる。爆弾でなく花火を作っていれば、戦争は起きなかったのに-
▼世界中の武器が釣り竿や花火に変わったら。そんな夢想は理想に過ぎないと退けられるだろうか。けれど理念や志を忘れてしまえばただただ現実に流される。こんな時代であればこそ、片手にしかと理想を携えて現実を見据えたい。
