㊧ブーゲンビル島上空で撃墜された山本五十六搭乗機の左翼=7日、長岡市の山本五十六記念館 ㊨山本五十六
㊧ブーゲンビル島上空で撃墜された山本五十六搭乗機の左翼=7日、長岡市の山本五十六記念館 ㊨山本五十六

 1941年12月8日(日本時間)、旧日本軍が米国ハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争の端緒を開いた。指揮したのは長岡市出身の連合艦隊司令長官・山本五十六。日米の国力差を知り、戦争に反対しながらも、米国攻撃を指揮する運命をたどった。8日は開戦から80年。ゆかりの人々は戦争回避を願い、郷土を愛した五十六を今もしのぶ。

 真珠湾攻撃では、旧日本軍がハワイ・ホノルルの米軍軍事拠点を奇襲攻撃し、大きな戦果を上げた。

 日本国内は大勝に沸いたが、作戦を主導した五十六は快く思っていなかった。真珠湾攻撃の翌月、海軍兵学校の後輩だった古賀峯一に宛てた手紙でこう漏らした。「彼等にすれは飼犬に一寸手をかまれた位」「国内の軽薄なるさわきは誠に外聞わるき事」(堀悌吉「五峯録」より)

 背景には日米の国力差を痛感していたことがある。米国の日本大使館勤務の経験もあり、米国の自動車、航空産業や油田の視察を通じ、衝撃を受けていた。

 連合艦隊司令長官として長期戦を避け、短期決戦から早期講和の道を思い描いた五十六。しかし、ミッドウェー海戦で大敗、戦いは泥沼化していく。

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 五十六は1884年、旧長岡藩士の高野家に生まれ、長岡中学校から海軍兵学校に進んだ。海軍少佐の1916年、同藩家老だった山本帯刀の家を継いだ。戊辰戦争で敗れ、一度は断絶した山本家の再興を担った。

 「海軍で出世し、国に尽くすことで山本家や長岡藩の名誉を回復するとの思いがあったのではないか」。郷土史家で山本五十六記念館(長岡市)の展示企画委員、古田島吉輝さん(85)は推し量る。

 五十六は古里の長岡を愛した。小学校の恩師・渡部與(あたう)とは長年文通を続け、職を失った渡部氏の長女の学費を引き受けるとも申し出ている。兄への書簡では、好物の菓子を「喰ひたいスケ買ふて呉らっしゃい」と長岡弁で甘える一面も見せた。

 「郷土を愛し、誠実だった人柄が伝わる。国の方針が思いとは別の方向に進んでも、最後まで長岡を思いながら戦い抜いたのでは」と古田島さんはみる。

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 五十六は43年4月18日、前線を視察中、搭乗機が撃墜され、戦死した。国民的な人気が高かった五十六の死は国内に大きな衝撃を及ぼし、国葬が営まれた。

 五十六の死後、戦局はますます悪化する。長岡は45年夏、大規模な空襲を受け、分かっているだけで1488人が犠牲となった。五十六の感じた国力差は最悪の形で郷里をも襲った。

 「将来自分が海軍を退く時は故郷でこの青年達を教育してみたい」-。友人の反町栄一は、五十六が帰郷した時の言葉を著作で紹介している。

 この夢は実現することはなかった。しかし、いま若い世代の日米交流が生まれている。長岡市と米ハワイ州ホノルル市は2012年、姉妹都市となり、花火を打ち上げるなど友好関係を築く。今年は8日に両市の中学生がオンラインで交流する。

 古田島さんは力を込める。「日本の発展と平和を願い、戦争回避の努力を続けた五十六の思いを忘れてはいけない」