行政文書の信用度を、省庁を指揮する大臣が真っ向から否定するのは異常だ。政治が行政の信頼をゆがめることは看過できない。

 放送法が掲げる「政治的公平」の解釈を巡り、立憲民主党の議員が総務省の内部文書として公表した資料について、同省は「行政文書」であると認めた。

 安倍政権下の2014~15年に作成されたものとみられ、官邸が政権に批判的な民放番組へのけん制を狙って、総務省と協議を重ねた経緯が記されている。

 これが事実なら当時、礒崎陽輔首相補佐官の提起を機に、安倍晋三首相らと認識を擦り合わせ、高市早苗総務相(現経済安全保障担当相)が15年5月の国会答弁で放送法の解釈変更を表明するまでの一連の流れが浮かび上がる。

 高市氏は「一つの番組のみでも極端な場合は一般論として政治的公平を確保しているとは認められない」と答弁し、従来の政府見解と異なる解釈と受け止められた。

 しかし高市氏は、自身についての記載がある4枚はいずれも捏造(ねつぞう)だと主張し、捏造でなければ議員辞職すると言及している。

 文書作成時の大臣が、捏造という強い言葉を持ち出してまで、行政文書を否定していることには納得がいかない。

 省庁が政治家からの指示や交渉経緯を文書で記録し、保管するのは、同様の問題が再び起きた時などに組織内で対応の参考にするためだろう。政治家の個々の発言も、ニュアンスを知るために、文書で残す必要がある。

 高市氏は文書について、報告を受けていないとも強調した。だが政治家に内容の正確性を確認すれば、「文書に残すな」とも言われかねず、官僚があえて聞かなかったとしても不思議はない。

 総務省の今川拓郎官房長は「一般論として行政文書の中に捏造があるとは考えにくい」と述べた。そう認識するのは自然だ。

 騒動を通じて官僚が後ろ向きになり、政治家にとって不都合な記録が保存されなくなるような事態を招いてはならない。

 安倍政権では森友、加計学園問題や桜を見る会など、公文書の問題がいくつも噴出した。森友学園を巡っては、安倍氏の国会答弁との整合性を取るため財務省が決裁文書の改ざんを指示し、職員の自殺まで引き起こした。

 放送法の解釈変更も、官邸側の不満に端を発して総務省が対応を迫られ、状況は似ている。

 文書には、担当局長が政治的公平の解釈などを説明したと記されているが、高市氏は「レクを受けたことはない」と断言した。

 文書が捏造だというのなら、官邸や担当局長との擦り合わせもなく、内閣法制局に通すこともせず、解釈変更に至ったのはなぜなのか、高市氏は国民が納得いくように説明しなくてはならない。