元首相が演説中に銃撃されて亡くなるという前代未聞の事件は、日本社会を激しく揺さぶった。国民が受けた衝撃の大きさは計り知れない。
事件は、社会に潜む深刻な問題も浮かび上がらせた。惨劇から得た教訓は生かされているか、日本社会が問われていることを忘れてはならない。
安倍晋三元首相が奈良市で街頭演説中に銃撃された事件から8日で1年になった。
民主主義の根幹をなす言論の場で起きた暴挙を許すことはできない。安倍氏の冥福を改めて祈りたい。
◆なお続く被害の訴え
安倍氏を銃撃し殺人罪などで起訴された山上徹也被告は、母親が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に約1億円を献金し、家庭崩壊を招いたことを犯行動機に挙げた。
取り調べには、安倍氏を殺害したのは、教団と親交を結んだ岸信介元首相の孫だからといった趣旨の供述をした。
教団と政治家の関係に焦点が当たり、自民党を中心に接点を持つ国会議員が多数に上ることが判明した。
一方で安倍氏と教団の詳しい関係については、岸田文雄首相が「本人が亡くなられた今、十分に把握することは限界がある」として調査を拒否した。
歴代最長政権を担った元首相がなぜ狙われたのか、その背景を調べもせずに幕引きが図られたことは残念だ。政治と教団の関係検証が足りない。
事件をきっかけに、被告と同じような境遇にある「宗教2世」ら教団による被害者の存在が浮き彫りになった。
政府は過度な献金の規制を急ぎ、昨年12月には不当寄付勧誘防止法を成立させた。寄付者や家族の生活維持を困難にさせないことを配慮義務とした。
見過ごせないのは、被害の訴えが今なお続いていることだ。
教団は事件後、年間数百億円と指摘されていた日本から韓国への送金中止を表明した。
だが教団トップの韓鶴子総裁は依然として、教団に対する経済的な見返りを正当化する発言をしており、送金中止の実態は定かでない。
文化庁は教団への解散命令請求を視野に、宗教法人法に基づく質問権の行使を重ねているが、7カ月たっても解散の可否を判断するには至っていない。
対応が長引く間に被害が広がることに懸念がある。
安倍氏の事件後、警察庁は要人警護の在り方を見直し、警護計画の事前審査など、道府県警への関与を強めた。
ところが4月には、和歌山市の演説会場で、岸田首相に向けて爆発物が投げ込まれた。
その後の検証では新しい警護要則に基づく警護計画を立て、警察庁が事前審査したものの、警察と主催者側との調整が不十分だったことが判明した。
計画があれば万全ということではない。綿密な協議や柔軟な態勢整備を欠いてはならない。
主催する側の各政党も、襲撃が繰り返されたことを重く受け止め、選挙や政治活動の場での安全確保について検討を始めるべきだろう。
安倍氏の「国葬」を巡って、政府は8月中に国葬記録集をまとめる。しかし有識者が指摘した問題点は記載しない方針だ。
◆国葬基準に禍根残す
国葬は国民全体に関わる重要課題でありながら、岸田政権は国会への十分な説明をせずに閣議決定した。この対応に、法的根拠や基準を明確にすべきだとして批判が続出した。
首相は昨年9月の国会審議で「今後に役立つよう検証をしっかり行う」と述べ、検証作業をすると自ら打ち出していた。
にもかかわらず、有識者のヒアリングで出された多くの指摘を分析せず、たなざらしにした政府の姿勢には問題がある。
松野博一官房長官は今月、今後の首相経験者の国葬について、実施基準を明文化しないと表明した。国葬の検討は「時の内閣が責任を持って判断する」とし、国会には実施決定後と国葬終了後に説明するとした。
決定前に国会の声を聞こうとせず、時の政権の裁量に任せるのでは、再び意見対立を招く可能性があり、禍根を残す。
議論を尽くし、国民的な合意形成を図る努力をしようとしない岸田政権の姿勢がまた表れたと言えるだろう。
課題に真摯(しんし)に向き合い、解決しようとしないのでは、教訓の風化は避けられない。