太平洋戦争中や戦後の暮らしのエピソードを紹介する「#あちこちのすずさん」と連携した記事を、シリーズで「まいにち ふむふむ」に掲載します。初回は、ふむっ子記者で新潟大学付属長岡小5年の渋谷日向里さん(10)が長岡戦災資料館を訪ね、長岡空襲の語り部をしている今泉恭子さん(82)に話を聞きました。
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長岡空襲は1945年8月1日夜にありました。アメリカ軍の爆撃機B29による焼夷弾攻撃で、長岡の街は市街地の8割を焼失し、約1500人が犠牲になりました。
今泉さんは幼稚園の年長でした。「寝ていたら母に起こされて、暗い方、暗い方へと逃げました」。父親を先頭に、火が回っていない暗い場所を探して逃げ、たどり着いた田んぼで朝を迎えました。
両親ときょうだいの一家6人は無事でしたが、家は焼けてしまいました。一家は小千谷市にある母親の実家に身を寄せました。
戦後間もないころ、家を建てるのは大変でした。あらゆる物が不足していた上に、男の人は戦地に行っていたため、大工さんの数が少なかったからです。
そこで、今泉さんの両親は「おにぎり作戦」で大工さんを引きつけます。空襲の翌年、一家は新築工事が進む自宅近くの家に間借りし、庭に置いたしちりん(炭を使うコンロ)で毎日お米を炊いて、大工さんにおにぎりを振る舞いました。「白いご飯のおにぎりは何にも代えられない魅力があったんです」
引っ越した日のことも忘れられません。「屋根ができたらすぐに移って、家族6人で寝ました。畳や戸はまだなくて、外に星が見えたけど、うれしくてうれしくて」。昨日のことのように声を弾ませます。
新しい家には、親戚や近所の人がお風呂を借りに来ました。今泉さんはお姉さんと2人、風呂に水を運ぶ手伝いをしました。「子どももできることをして、みんなで助け合って生きていました」と振り返ります。
この頃、夜の停電はちょっとした楽しみでした。当時は電力事情が悪く、よく停電が起きました。毎晩、遅くまで裁縫などをしているお母さんが、停電すると手を止めて横になるので、すかさず隣に行きました。「母と昔話やしりとりをするのが楽しかった。母に甘えられる時間でした」
<焼夷弾> 火災を起こすことが目的の爆弾で、日本を攻撃するためにアメリカ軍が使用しました。
停電の時だけ母に甘え
渋谷さんは資料館を見学してから、今泉さんの体験談を聞きました。
「B29の音が聞こえたとき、どう思いましたか」。どれだけ怖かっただろうかと渋谷さんが質問すると、「音は覚えていないんです」と今泉さん。「前を行く姉を見失わないように足元を見ていたから、空の飛行機も見ていないんですよ」。意外な答えに、渋谷さんにも小さかった今泉さんが必死に逃げる様子が伝わりました。
「当時は何が幸せでしたか」と聞くと、忙しいお母さんと遊べた停電時のエピソードを教えてくれました。渋谷さんは「私もお母さんと一緒にいるときは幸せを感じます」と、はにかんだ笑顔で答えました。
「今泉さんが考える平和は何ですか」とも問いかけました。今泉さんは「自分の言葉で話せて、好きなことができること」と力強く語りました。渋谷さんは、「平和の話が心に残りました。戦争のことを知らない友達にも伝えたいです」と話していました。
ふむっ子記者 渋谷日向里さん(10)
今泉さんが子どものころ、長岡は今とは全く違う姿だったようだ。楽しい友達との時間や家族の時間など普通の、日常の人々の生活があった。それが、焼夷弾によって一瞬で消えてしまった。
「戦争」と聞いても私には想像できない。恐らく、私は戦争の現実というものを分かってはいないと思う。私は「戦争をなぜするのか」という疑問を以前から持っている。何のために、人間が命を落とさなければいけないのか、私もどうしても納得できない。
空襲で全てをなくし、それでも立ち上がって、長岡の街を造ってきてくれたのは、今のお年寄りの方々だ。今泉さんの話を聞いて、戦争の恐怖を知る人たちが、今ある平和を受け継いで、若い人々と協力して、より良い社会を作り上げていきたいと考えていることが伝わってきた。
私は今の平和を守り、未来では社会で役に立つ人になりたい。そして、今泉さんのお話で知ったことを忘れず、「戦争は絶対にしない」という気持ちを持ち続けて生きようと思う。
今泉さんは、一日一日を大切にして、健康で幸せに過ごしているとうかがって、とてもうれしく思った。
新潟日報 2021/08/02