太平洋戦争末期、旧羽茂村(現在の佐渡市)の上空を、日の丸を付けたプロペラ機が飛んだ。国民学校に通う一人の少年は「へえー」と思いながら見上げていた。当時、教員から「君らが供出したアルミの弁当箱が飛行機になった」と教えられていたからだ。
新潟市西区の金子芳雄さん(84)は、校庭に出て児童みんなで手を振ったことを思い出す。飛行機は、村の上空を低空飛行で旋回し、操縦士が手を振り返していた。
佐渡島には当時、飛行場がなかった。「新潟から飛んできたのでは。みんなが供出を頑張ったからと、お礼の飛行だったようだ」と記憶している。飛行機を見たのは初めてだった。「ただ、今思えばあの弁当箱があの飛行機になったとは考えにくい」と笑う。
金子さんは羽茂の農家の家に生まれた。国民学校に入学したのは1944年。アルミの弁当箱の中に豆や麦が交じった「かて飯」を敷き詰め、真ん中に自宅の梅で作った漬物がのる「日の丸弁当」が定番だった。
ある時、金属を供出するよう、村全体に指示があった。アルミの弁当箱どころか鍋やかま、自宅にあった刀も村役場に持っていった。「橋の欄干まで出した」という。
羽茂と飛行機を巡ってはこんな話もある。43、44年ごろ、地元のみそ製造会社が軍に戦闘機を献納した。羽茂小学校の沿革誌に、44年4月に献納機の命名式が講堂で開かれたと記されている。この会社はすでに当時の経営者から事業譲渡されたが、残されたホームページには「献納を祝賀し、戦闘機が羽茂の上空でデモ飛行したとされる」との記述がある。
コメも供出の対象になった。サーベルを腰から下げた警察官が自宅の蔵を見に来たことがあった。「この俵は何だ」と問われ、普段は温厚な父が大声で抗議した。「種もみです。これを供出したら来年のコメはどうなる」。警察官は「そうか」と引き下がった。
長兄は中国で戦死し、働き手を失った家は、戦中だけでなく戦後も生活は苦しかった。「弁当箱まで集めたんだから。本当に日本は資源がなかったんだねえ」。苦々しく振り返った。
(報道部・宮沢麻子)
新潟日報 2020/09/07