紙面・ウェブサイトに掲載したもののほかにも、読者から多くの「すずさん」のエピソードが寄せられています。一部を随時紹介します。
連日連夜のしらみつぶし
糸魚川市・近治義さん(82歳)
私は終戦時、小学校2年生でした。
当時は石けんも手に入らなくて、洗濯もままならず、女の子の髪には白くなるほど毛ジラミがついていました。
下着の縫い目にシラミが並んでおり、毎晩かゆくてねむれません。寝る前は必ず取って、爪で1匹ずつつぶします。パチンとつぶすと小さな血がにじみました。
ある時から生きたまま小さなビンの中に入れることにしました。兄と2人で裸電球のかさに黒い布をかぶせた明かりの下で1匹、2匹と数えながらつかまえました。
しかし翌日はまた、同じ事の繰り返しです。
その当時は薬や石けんより明日の食べ物が第一の時代でした。
つながる命に感謝
新潟市秋葉区・しゅんこさん(44歳)
私の祖母の話です。今から11年前に他界しました。
戦争当時、祖父母は長岡に住んでおりました。8月1日の長岡空襲の時は妊娠末期で、逃げた先の寺で長女(叔母)を生んだそうです。
着物の帯をおんぶ紐にして、首のすわってない赤ちゃんをおんぶしながら新津(現・新潟市秋葉区)の親戚を頼って逃げてきたそうです。
「母乳があるから赤ちゃんは大丈夫」ということが、心の支えだったようです。
私が初めての赤ちゃんを産んだ時は、「戦争があると食べ物やミルクがないから母乳は大事なんだよ」と、いつも言っていました。
今から20年くらい前ですが、新津で花火が上がることが嬉しくて、祖母を誘って見に行ったら、祖母は「空襲を思い出すから花火が怖い」と泣いてました。
今、私たちが幸せに暮らせているのはあの時に命をつないでくれた皆さんのおかげです。感謝をつなげていきたいです。