戦時中、ギターで流行歌を弾くのが楽しみだった。94歳の今もギターはいつもそばにある。長岡市の村山康英さんは1944年、18歳で名古屋の軍需工場に学徒勤労動員されたときもギターを携えて行った。「親父が買ってくれて、放せなかったんだ」
村山さんは北条村(現在の柏崎市)出身で、40年に旧制柏崎中学に入学した。バスケットボール部に入ったが、「敵性スポーツ」とされたため、途中から柔道部に移らざるを得なかった。
学徒動員されたのは5年生のとき。動員先で、ギターケースを持ち歩いているところを担任の男性教師に見つかると、にらまれた。鼻の下のちょびひげがヒトラーのようで、皆から「チャットラー」と呼ばれていた。村山さんは、作曲家古賀政男の曲が好きだったが、新聞に楽譜が載っていた「出征兵士を送る歌」も弾いた。「チャットラーはこの時ばかりはニコニコしていた」と振り返る。
軍需工場では、飛行機の部品を作ったが、物資不足などで仕事はあまりなかった。休みの日には、校則で禁止されて柏崎では行けなかった食堂や劇場にも足を運んだ。「わりに自由で面白かった」。劇場ではアコーディオンのようなバンドネオンの演奏を聴いた。
工場で働く女性工員たちと卓球をしたり、滝を見に行ったりした。少し年上のお姉さんは、洗濯物を他の同級生より丁寧にアイロンがけしてくれた。村山さんだけの特別扱いで、好意を持たれているのを感じた。
悲しいこともあった。夜の空襲で寮が焼けてしまった。逃げ遅れた同級生一人が亡くなった。そして、大切にしていたギターと楽譜も燃えてしまった。翌朝ぼうぜんとした。
卒業式もなく中学を卒業し、軍隊に入隊したがほどなく終戦に。ギターは戦後、しばらくして再開した。小学校教師を務める傍らギターを続け、「一生の友達」となった。好きな曲を自由に演奏できる喜びをかみしめ、弦をはじいている。
(報道部・小柳香葉子)
新潟日報 2020/08/10