長岡市は県内で唯一、第2次大戦中に米軍による大規模な市街地爆撃を受けた。空襲の真実を伝え、悲惨さを忘れず、平和への思いをつなぐ拠点施設として、大切に守っていかなくてはならない。

 長岡戦災資料館が7月、開館20周年を迎えた。戦災関連の資料約4千点を所蔵し、2022年度は約1万2千人が訪れた。

 長岡空襲は、1945年8月1日午後10時半に始まった。1時間40分にわたって米軍のB29爆撃機125機が次々と飛来し、16万発を超える焼夷弾(しょういだん)を投下した。

 市街地の8割が焼き尽くされ、火の海の中を市民が逃げ惑った。赤ちゃんや子どもを含む多くの人たちが亡くなった。

 正確な死者数は不明だが、7月20日に落とされた模擬原爆による犠牲を含め、少なくとも1488人が命を落とした。

 資料館によると、米軍は全国の都市の人口規模の大きさを念頭に空襲の目的地を定めていた。新潟市は原爆投下候補地だったため免れ、長岡市は県内2番目の人口だったが被災した。

 2003年7月の開館時から、資料館の関係者は空襲の真実を伝えることを追究してきた。「長岡は山本五十六の出身地だから報復を受けた」とする認識も広がっていたからだ。

 あの日の惨劇を風化させず、若い世代にも受け止めてもらおうと、資料館は「戦争の可視化」に力を入れてきた。

 遺族らの協力を得て集めた遺影は現在、363人分に上る。壁を埋めるモノクロ写真は、戦争のむごさを無言で訴えている。焼失した市街地の地図を作成し、戦災写真のカラー化にも貢献した。

 資料館の運営の中核を市民ボランティアが担ってきた。これまで総勢77人が参加し、自ら語り部を務め、証言者を探した人もいた。

 ただ、20年たつ中で高齢化が進み、実際に空襲を体験した語り部は8人しかいない。日本の総人口に占める戦後生まれの割合が9割に近づく中、記憶の伝承は年々厳しさを増している。

 一方、長岡青年会議所など若い世代と連携する新たな動きも出てきた。小中学校への平和学習の出前授業の依頼は年々増えているといい、授業を通じて当時の惨禍と平和の尊さを伝えている。

 現在は民間ビルに入っている資料館を恒久的な施設にしようと、長岡市は25年度中に、爆撃の中心点だった坂之上町3の明治公園に隣接する建物へ移転する。

 面積は現在の倍以上の約千平方メートルになり、展示や学習スペースも増える。これまで夏限定で公開してきた遺影も常設展示となる。

 あの日から78回目の8月1日が、間もなく巡ってくる。平和のバトンを次世代へつないでいくため、世代を超えて痛みの記憶を共有する方策を考えていきたい。