本紙読者文芸の選者だった俳人の黒田杏子さんは戦時中の1944年、栃木県に疎開した。まだ6歳だった。母や妹、弟と民家の2階に身を寄せた。その土地の寺では既に、3歳上の兄が学童疎開で集団生活をしていた
▼兄は日曜になると訪ねてきた。階段を上る足音ですぐに兄だと分かるのだが、兄も黒田さんたちもすぐには障子を開けなかった。黒田さんが一度、障子を開けた時、兄が天井を向いて涙をこらえているのを見たからだ
▼〈ひもじくて、懐かしくて、嬉(うれ)しくて泣いている姿を銃後の少年は人に見せてはならないのです〉。黒田さんは著書「暮らしの歳時記」で、こう述懐している。親と離れての集団生活は空腹や寂しさとの闘いでもあったのだろう
▼戦況の悪化から、都市部で暮らす子どもたちが農村や地方都市へ避難した。身内を頼る縁故疎開も含め、終戦までに約60万人が親元を離れた。本県も約1万5千人を受け入れたという
▼当時の学童疎開を想起する人もいるだろう。地震で大きな被害を受けた石川県の能登地方で、中学生の集団避難が始まった。被害の少ない地域に移り、集団生活をしながら学習機会を確保する。第1弾となった輪島市は最大約2カ月間と見込むが、学校再開の見通しは立っていない
▼地元に残る決断をした子もいる。どちらにしても、これまでの日常と離れた生活が待っている。多感な時期の子どもたちだ。最大限のケアが求められる。教員らの人手もかかる。サポートを惜しんではなるまい。