その日は夕方になっても日中の蒸し暑さが残っていた。夜のとばりが降りる中に優美な調べが響くと、汗がすっと引いたのを覚えている。わが視線の先には世界的指揮者がいた。小澤征爾さんである
▼1993年8月のことだった。小澤さんは盟友で世界的なチェロ奏者のロストロポービッチさんらとキャラバンを組み、県内の中山間地を回って無料のミニコンサートを開いた。会場は、お寺の境内や小学校の体育館など。筆者が足を運んだのは塩沢町(現南魚沼市)の関興寺だった
▼クラシックに触れる機会の少ない人に、普段着で気軽に聞いてほしいと企画された。ビバルディのチェロ協奏曲などが本堂や境内に響いた。その場の空気が優しさで満たされていくように感じた
▼曲を奏でながら幼い頃に寺の境内で遊んだことを思い出したようだった。観客の拍手に応え、あいさつに立つと「こうした場所で演奏すると、死んだ父らを思い出して…」と涙ぐんだ
▼世界を股にかけて活躍していても、心の奥底にはいつも日本の原風景があったのか。2004年、中越地震に襲われた本県のことも気にかけてくれた。被災地の中学校で慰問コンサートを開いた。クラシックを演奏した後、集まった人々と童謡「七つの子」を歌った
▼そんな小澤さんの訃報が届いた。世界で、日本で、どれだけの聴衆を魅了してきたのか。音楽は人の心そのものである。飾らないマエストロの声が聞こえた気がした。あの夏、境内に響いた音色を思い出している。