落語の多くが江戸の下町を舞台にしている中、「松山鏡」は数少ないご当地ものだ。「鏡を知らない越後の松山村」が舞台。日報政経懇話会長岡会で、講師の立川談慶師匠が一席語り聞かせてくれた

▼父親の墓参りを欠かさない孝行息子の正助に殿様が褒美をやろうという。金も田畑も辞退した正助は「死んだお父っつぁんに会いてえ」。殿様が「決して人に見せるな」と与えたのは鏡だった

▼「あれまあ、お父っつぁん、ずいぶん若返った」。自分の顔を父と信じた正助は、つづらに隠してひそかに朝晩の面会を楽しむ。怪しんだ妻がつづらをのぞくと「やっぱり隠し女が」-と話は続く

▼お定まりの夫婦げんかになり、仲裁に入った尼さんが鏡を見てオチがつく。「ふたりがけんかしたで、中の女、きまり悪いと頭を丸めて尼になった」。正直者で疑うことをしない県民気質が、ほのぼのと描かれている

▼十日町市松之山地域には、別の「松山鏡」が伝わる。こちらは実母と死に別れた娘が主人公だ。継母に虐待されるようになった娘は、鏡ケ池に映った自分の姿を「亡き母が迎えに来た」と勘違いする。実母に会いたい一心から、池に身を投げてしまった

▼滑稽話か悲話かは違えど、どちらも亡き親を慕う子の思いが伝わる。日常に鏡があふれる現代では、むしろ自分の顔をまじまじと見る機会は減ったかもしれない。年をとったら自分の顔に責任を持て、とも言われる。自分に正直に、誠実に生きているか-。鏡の中に問いかけてみる。

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