
家族や友人を亡くした人の悲しみにどう寄り添えるか。芥川賞作家で音楽家でもあった新潟市出身の新井満さん(あらい・まん、1946年-2021年)本名みつる。新潟市出身。新潟明訓高、上智大卒業後、電通に勤務する傍ら、1987年に「ヴェクサシオン」で野間文芸新人賞、88年に「尋ね人の時間」で芥川賞を受賞。米国に伝わる作者不詳の詩を翻訳、作曲し、自身でも歌った「千の風になって」は「私のお墓の前で泣かないでください」という詞が話題に。東日本大震災の津波に耐えて残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」を題材に写真詩集「希望の木」を刊行。新潟県では「千の風になって」をまちおこしに活用した新潟市のイベント「千の風音楽祭」の開催に尽力したほか、優れた自費出版図書を表彰する「新潟出版文化賞」の選考委員長を務めた。晩年は、北海道七飯(ななえ)町で暮らしていた。=2021年死去=は生前、命と向き合い、五線譜に言葉を載せた。妻を亡くした友人に贈った「千の風になって新井満さんが妻を亡くした友人を励ますため、2001年に作者不詳の一編の外国詩を翻訳し、曲を付けた。新井さんは自ら歌った「千の風」を私家版として友人らに配布。徐々に評判を呼び、03年にCDを一般発売した。全盲のテノール歌手の新垣勉さんら多くの歌い手がカバー。06年にテノール歌手の秋川雅史さんが歌い、NHK紅白歌合戦に出場するとヒットし、ミリオンセラーに。紅白出場の際、SMAP(当時)の木村拓哉さんが詞を朗読する形で共演した。秋川さんによると、詩の朗読は新井さんのアイデアという。新井さんは07年に日本レコード大賞作曲賞に、秋川さんは特別賞にそれぞれ輝いた。一方、新井さんは04年に「千の風基金」を設立し、千の風を贈った友人と共に環境や平和、教育などの社会活動に取り組む団体を支援し続けた。」。2001年のことだ。やがてその歌は何人もの歌い手によって広まり、06年にはテノール歌手の秋川雅史さんがヒットさせた。3月11日で13年となる東日本大震災、24年元日の能登半島地震でも多くの悲しみが被災地を覆う。今も人々の心に吹き込む「千の風」。その優しさの理由をたどってみた。
(報道部・桑原健太郎)
妻の死から5年、届いた一枚のMD「アラマンの声が胸に来た」
新井満さんの幼なじみ・川上耕さん
「千の風」が贈られたのは、新井満さんの幼なじみだった川上耕さん(76)。新潟市中央区の弁護士で、1996年に妻桂子さんをがんで亡くした。桂子さんは48歳。子ども3人を残していた。
1997年にまとめられた桂子さんの追悼文集で、友人が外国の詩の訳詩「1000の風」を載せ、「桂子さんが語りかけてくれているような気がして心が安らぐ思いでした」と紹介した。
それを目にした満さんが歌にしようと作曲を始めた。だが、「詞と音楽が合わず、すごく悩んでいた」。満さんの妻紀子(のりこ)さん(76)は振り返る。

桂子さんの死から5年がたったある日、耕さんに「アラマン」(耕さんが満さんを呼ぶ愛称)から一枚のMDが届いた。満さんが「千の風」を語るように歌っていた。「英語の原詩を探し、自ら訳して音をつけて完成させた」(紀子さん)という。
耕さんは「うれしかった。アラマンの声が胸に来た。きれいな親しみやすいメロディー」と感じた。
その後、多くの人の心にも届き、「慰められた人がいっぱいいたと思う」。そして目を閉じ、続けた。「この歌はずっと歌い継がれ、大事にされていく。生き続けていくだろう」
時代を超える普遍性、「千の風」はラブソング
テノール歌手・秋川雅史さんインタビュー
新井満さんが翻訳・作曲を手がけた楽曲「千の風になって」は、テノール歌手秋川雅史さん(56)の声に乗り、時を超えて人々の心を震わせている。秋川さんは「千の風」に何を思うのか。新井さんの思い出とともに伺った。

-2006年の...