目的は何なのか。そこに尽きる。パフォーマンスにとどまるのか。水俣病被害者団体と懇談を重ねる伊藤信太郎環境相の対応についてである

▼環境相は今週の九州に続いて来週には本県を訪れ、被害者団体と対話の場を持つ。5月の熊本での懇談で、3分の制限時間を理由に発言の途中でマイクを切り、批判を浴びた失態が前提にある。関係修復を図りたいとする

▼団体側が懇談の前提に据えるのは、新潟を含む全国3地裁で昨年から続いた水俣病訴訟の判決だ。原告を患者だと認めた判決を踏まえ、国が包括的な問題決着へどう覚悟を見せるかを注視する。今週の懇談で前向きな言及はなかった

▼大臣に先駆けて5月末、環境政務官の国定勇人衆院議員が本県被害者団体と面談した。国定氏は「対話を積み重ねるのは基本中の基本」「失われた信頼を取り戻す第一歩として対話を積み重ねていく」と繰り返した

▼対話は大切だ。けれど対話重視が声高に強調されすぎても違和感が膨らむ。なぜか。新潟水俣病は公式確認から59年が過ぎた。この間、どれほど多くの被害者が、さまざまな場面で、痛切な思いを、国に伝え続けてきたことか。行政の担当者は何年かすれば任を外れてしまうが、もはや「話を伺います」の段階にはないはずだ

▼問題がこれほど長引いたのは、被害の矮小(わいしょう)化と早期の幕引きに国が腐心し続けてきた帰結ではないか。そこから目をそらしたままでは、教訓など残りはしない。懇談の先にあるもの。それが問われている。

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