新潟大農学部の村松ステーション。研究チームの調査を基に、秘匿飛行場が建造されたとみられる場所を本社小型無人機で撮影し、滑走路跡とみられる場所を着色加工した=五泉市石曽根
新潟大農学部の村松ステーション。研究チームの調査を基に、秘匿飛行場が建造されたとみられる場所を本社小型無人機で撮影し、滑走路跡とみられる場所を着色加工した=五泉市石曽根

 太平洋戦争末期の1945年ごろ、本土決戦に備え新潟県など全国各地で「秘匿飛行場太平洋戦争末期、敵国の本土上陸を想定し、空からの発見を避ける偽装をした飛行場。(※ページ下部に詳細)」が秘密裏に造られた。その一つがあったのが村松町(現五泉市)。旧陸軍村松兵営の練兵場に造成された。旧制村松中学校(現村松高校)に通っていた13歳のころ、建設に動員された新潟大名誉教授の佐藤峰雄さん(92)=新潟市西区=は、空腹の中で命じられるがままに作業した。出征したいとこと兄を亡くした経験も重ね「人を物のように扱う戦争は二度としてはいけない」と力を込める。

 旧制村松中学2年生だった佐藤さんは1945年、村松町で秘匿飛行場の建設に携わった。陸軍の少年通信兵らが訓練していた練兵場の塹壕(ざんごう)を埋め、地面を平らにして滑走路を造る作業だった。

 塹壕を埋める土を運ぶため、練兵場内にトロッコの線路を敷いた。戦時中とはいえ遊びたい盛り。「たまにトロッコに乗って移動できるときは楽しかった」が、突貫工事で造った線路では思うように進まなかった。重いトロッコを押す日々が続いた。

 「秘匿」であり、米軍に見つかってはならない。作業中に空襲警報が鳴ると、急いで滑走路を隠した。杉の木を植えた大きな箱を数人で運んで滑走路上に置き、林を装った。「重くてね。大変だったが必死だった」。作業は厳しく、食事は「よく生き延びた」と思い返すほどわずかだった。

 終戦の8月15日、滑走路などがある陸軍施設の方から発砲音が...

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