医師で俳人の蒲原宏さんが今年3月、101歳で亡くなりました。特攻に“加担した”自責の念に苦しみながらも、晩年は俳句を通して戦争の傷痕を伝えようとしていました。蒲原さんの平和への思いをつなぐため、生前の昨夏に掲載した記事を8月15日に合わせて再掲します。
医師で俳人の蒲原宏さんを悼む声多く 3月3日に101歳で死去
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爆弾を抱えた飛行機で体当たり攻撃をする特攻。太平洋戦争中、多くの若者の命が散った。
軍医少尉として1945年2月、鹿児島県串良町(現鹿屋市)の九州海軍航空隊串良基地に赴いた蒲原宏さん(100)=新潟市中央区=は、兵士が特攻に出撃する前に「元気が出る」という注射を打っていた。
戦後、覚醒剤の「ヒロポン大日本製薬(現住友ファーマ)が1941年に発売した覚醒剤で、「疲労除去」や「眠気一掃」をうたって市販された。ページ下部に詳しい解説を掲載。」と知り、がくぜんとした。「取り返しのつかないことをしてしまった」と今も悔やむ。
「冬帽を振つて送りし特攻機」-。俳人としても知られる蒲原さんは45年、特攻への出撃を見送るさまをこう詠んでいる。「命がもったいないなと思っていても、口にすることはできなかった。心の中で南無阿弥陀仏と唱えていた」と声を震わせる。
新潟市内の蒲原浄光寺に長男として生まれた。歴史や文学が好きで、文系の大学に進学しようと考えていたが「寺の子として不殺生戒を犯さないように」という父の勧めで41年、新潟医科大学(現新潟大医学部)に進学した。
「当時、父親の言うことは絶対だった。18歳で迎えた人生の大転換だった」。医科大には俳人の医師もおり、俳句にも親しんだ。
戦争の影響で、大学の講義は3年3カ月で打ち切られ、45年1月に海軍の軍医少尉となった。「今日よりは海の武夫菊日和」。医師免許を受け取った日に詠んだ句には、軍人としての覚悟がにじんだ。
◆うらやむ兵士に返す言葉なく
戦況が悪化していく中、1945年2月、特攻が出撃する鹿児島県の串良(くしら)基地に配属となった。

出撃前になると、上官が選定した隊員の名前が士官室に張り出された。みなじっと見つめていた。「海の底のような静けさで、声をかけられるような雰囲気ではなかった」。自ら志願した者は知る限り、いなかった。
特攻に出る前の兵士は「生に対する絶望感。目がギラギラしていて鬼のような顔だった」という。「軍医さんはいいですね」と、同じ部屋を使う兵からうらやむ様子で言われたこともある。実戦に投入されない者として、返す言葉がなかった。

鹿児島県の串良基地に配属されたころの蒲原宏さん(右)。4人いた軍医のなかで最年少だった=1945年3月(蒲原さん提供)
ヒロポンを打つことも任務だった。終戦までに200人ほどに投与した。「夜によく目が覚めて、元気が出る注射だと聞いていた。上からの命令で何かわからないまま打っていた」
戦後、大学の研究室に入り図書館で調べものをしていた時、覚醒剤と知った。「戦争で直接僕が手を下すことはなかったが、そういうことに加担してしまった。なんて申し訳ないことをしてしまったんだ」と目に涙を浮かべる。
◆俳句を通し「戦争の傷痕伝えたい」
戦後、医学博士の学位を取得し、整形外科医として県立がんセンター新潟病院に勤務した。その傍ら、句集も出版するなど俳人として精力的に活動してきたが、戦争に関するものは長く詠めなかった。「あの時代の魂の傷を、自分自身で見ることが怖かった」と明かす。
転機となったのは1999年、知人に推薦され、護国神社(新潟市中央区)のみたま祭に献灯、献句を始めたことだった。あの戦争を振り返り、年を経るごとに「俳句を通して戦争という傷痕を残し、伝えたい」という思いが募った。

平和への思いを語る蒲原宏さん=新潟市江南区
「戦友の墓は田の端田螺(たにし)鳴く」。沖縄への特攻で亡くなった戦友を墓参した時のことを思い出し詠んだ。「戦友の兄に遺品を渡し、目の前で号泣された」といい、時がたつほどに戦争への恨みが強くなった。
8月15日を巡る句も多くある。「国亡ぶ日もかく蛍飛びしかと」。終戦の日の夜、串良基地で見た光景だ。きれいな光を放つ蛍たち。戦争に負けたその晩も、自然の営みは変わらず、「やすらぎのひととき」を感じた。
近年病を患い、1年ほど前からは車椅子で移動する。護国神社を訪れることもできなくなった。それでも平和への思いは変わらない。「あのような悲劇が二度と起こらないように願う」
(報道部・金澤朋香)