太平洋戦争の際、日本軍では玉砕命令が繰り返された。死ぬことが当然だと考えられた中で「生きろ」と命令された兵士がいた。現在の新潟市北区から出征した故石井耕一さんである

▼沖縄戦から生還し、戦後は地元の役場に勤め、旧豊栄市長にも就いた。本紙に戦争体験を語ってくれたこともある。そんな石井さんの歩みをたどった「戦場の人事係」(七尾和晃著)が刊行された

▼石井さんは所属した中隊の人事・服務担当として、軍隊の戸籍ともいえる戦時名簿の管理を任されていた。名簿には隊員の来歴が記され、死亡の経緯のメモも添えられた。米軍の攻撃が激化した1945年6月、中隊は手りゅう弾を抱えた自爆攻撃に追い込まれた

▼中隊の大半が命を落とした。死を覚悟した石井さんに中隊長は言った。「生きて伝えてくれ」。隊員一人一人が戦場でどう生き、どう死んでいったかを後世に伝えるのがお前の使命である。中隊長はこう命じたのだった

▼命と同じくらい大切な戦時名簿は一時身を潜めていた洞窟に隠してあった。米軍の捕虜になった後、米兵を洞窟に案内した際に奇跡的に取り戻した。復員後は遺族に手紙を出したり直接訪問したりして、それぞれの最期を伝えた

▼本紙は昨日付まで、糸魚川市出身でシベリア抑留死者の名簿を作った故村山常雄さんと関係者の思いを連載した。石井さんも村山さんも同じような思いを抱えて生きたのだろうか。兵士は誰もが一人の人間であり、それぞれの人生があったのである。

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