幕末期に新潟の初代奉行となった川村修就(ながたか)は、飛砂に苦しむ海岸線に松を植栽して港町発展の土台を築いた。現代ではまず、その功績が強調される

▼ただ、将軍からの至上命令は「北海防御」。新潟を異国船から守れということだ。奉行に就く前年の1842年には清国がアヘン戦争で英国に敗れ、植民地化が始まった。日本海にも外国船が頻繁に出没し、幕府は危機感を募らせていた。そこで、隠密の家系で砲術家でもあった彼が登用されたとされる(小松重男「幕末遠国奉行の日記」)

▼川村は気象観測に熱心に取り組んだ。47年、当時は珍しい寒暖儀(温度計)で新潟の気温を1日も休まず記録した。江戸でも観測を依頼し、記録を取り寄せて比較している

▼新潟市郷土資料館の「新潟市史読本」によると新潟の平均気温は約60度で江戸より4・8度低かった。この値が華氏だとすると、摂氏に直せば約15度で、江戸より1度弱低い。現代の観測値とさほど変わらない。気温の年間総計は「一六九三度半新潟寒し」との記録がある

▼大砲は火薬を使うため、気温や天候の影響が大きい。川村は新潟と江戸の気候の差にも気を配り、雪国ならではの砲術や戦闘を想定して防衛を考えていたのか

▼地球沸騰の現代、世界の平均気温は産業革命前から1度以上上昇している。温暖化対策は瀬戸際だ。11日から国連気候変動枠組み条約第29回締約国会議(COP29)が開かれる。1度の違いにこだわった川村の思いを受け継がねばならないはずだ。

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