今年「生誕100年」とされる力道山が暴漢に刺された末に死去したのは1963年12月15日だった。戦後復興期に空手チョップで日本人に勇気を与えたプロレスラーだ。亡くなる2年前の61年、極秘で新潟港を訪れ、停泊中の船で北朝鮮で暮らす次兄らと再会したことがあったという
▼妻の田中敬子さんがかつて本紙に語った。力道山は当時、大きな悩みを抱えていた。今では朝鮮半島出身とよく知られているが、当時は「日本のヒーロー」で出自の話はタブーだったからだ。長らく「長崎出身」とされた
▼戦前に日本へ渡り、力士になった。50年に廃業し、米国でのプロレス修行を経て、帰国後に成功を収めた。保守政界との関係が深く、韓国側と結び付きが強かった
▼一方で北朝鮮側との交わりもあり、多大な支援をしていた。新潟港での再会は特別な計らいだった。面会を終えた次兄らは船で帰国したという。それは、北朝鮮への帰還事業に使われた船だった
▼帰還事業は59年12月に始まった。84年までに在日朝鮮人や日本人妻ら約9万3千人が新潟港から北朝鮮に向かった。当時は「地上の楽園」と呼ばれたが、現地に渡った人々は日本以上に厳しい差別と貧困にさらされた。収容所に送られた人もいる。ほぼ全員が再び日本の地を踏むことはなかった
▼16日まで北朝鮮人権侵害問題啓発週間である。かの国との間には拉致問題の影も横たわる。半島と日本のはざまで揺れ動いた力道山は、あの世からどんな思いで眺めているだろう。