ゆっくりと舞い落ち、まつげの上で溶ける大きな雪片。何千本もの木々を揺らす猛吹雪。昨年のノーベル文学賞に選ばれた韓国人作家ハン・ガンさんの最新作「別れを告げない」には多くの雪の描写がある。雪国に住む身には、なじみ深い情景ばかりだ

▼主人公はソウルに住む作家。入院中の友人の頼みで冬の済州島を訪れ、70年以上前の「済州島四・三事件」を追体験する。南北の分断に反発した住民が武装蜂起した事件だ。今では“韓国のハワイ”といわれるリゾート地の済州島だが、血塗られた歴史がある

▼観光客が降り立つ空港はかつて処刑場だった。滑走路の下には多くの遺体が埋められていた。長編詩「新潟」で知られる在日コリアン詩人、金時鐘(キムシジョン)さんもこの事件に関わり、日本に逃れた。軍や警察による弾圧で3万人以上が犠牲になったとされ、韓国では長年タブー視されていた

▼物語を読み進むにつれ、静謐(せいひつ)な雪景色の下から血の色が立ち上ってくるように感じた。今の韓国政治の混乱を思い浮かべながら読むと、なおさら暗然となる

▼主人公は虐殺を題材にした作品を書いてから、生きる気力を失っている。ハンさんも故郷の光州で軍が市民を虐殺した「光州事件」を題材に小説を執筆した。主人公にはハンさんが投影されているのかもしれない

▼一方で物語には、絶望や諦念を抱えながらも創作を続け、前に進もうとする人物も登場する。ハンさんもそうなのか。だとしたら、そんな人々の存在こそが希望といえるはずだ。

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