越後平野についての大学の公開講座を聴講している。今や本県屈指の穀倉地帯の平野だが土地が低いため水はけが悪く、1950年代まで湿田と大小の潟が点在する土地だった。腰や胸まで泥水につかっての農作業を、史料館などの写真で見た人も多いだろう

▼講座では、水と戦いながらの農業の大変さとともに水と共生する豊かさについて、語られた。15年以上前、新潟市西蒲区の鎧潟(よろいがた)干拓を取材したことを思い出した。越後平野の数多くあった潟の中でも鎧潟は広大で、江戸時代には1500ヘクタールもあったという

▼取材では、鎧潟があった頃を知る80歳代の夫妻に話を聞いた。水との苦闘が切々と語られるだろうとの予想はやや外れ、工夫を凝らした漁や小舟に乗ってのヒシの実採り、水面(みなも)に映った“逆さ角田山”の美しさなど、懐かしそうに話してくれたのが印象に残る

▼そんな夫妻も湿田でのコメ作りには「休む間もなく働いたが暮らしは厳しかった。干拓は悲願だった」と語った。鎧潟干拓は58年、国営直轄事業として着工。10年ほどで広大な水田地帯が生まれた

▼戦後の食糧増産の掛け声の下での大事業だった。しかし完工した直後、国は開田抑制に転換。減反による生産調整へ移行していく

▼そして今、連日コメのニュースが注目される。増産に向け政策転換も議論されている。潟の記憶を宿した越後平野は、青々とした水田が草原のように美しい季節を迎える。国策につれ変化してきた郷里が、ずっと豊かであってほしいと願う。

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