
地裁判決を前に、中村洋二郎さん(右から2人目)を先頭に入廷行進する新潟水俣病第5次訴訟の原告や支援者ら=2024年4月、新潟市中央区
新潟水俣病1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。の被害者を支援する新潟水俣病共闘会議に3月、衝撃が走った。議長を務め、中心的存在だった中村洋二郎弁護士の訃報。89歳だった。中村さんは弁護団でただ一人、第1次訴訟から参加し、国や原因企業との交渉では常に最前線で早期救済を訴えた。「私は手もしびれていないし、耳鳴りもしていないから(その分頑張る)」。被害者のそばで苦しみを受け止め、代弁者として寄り添った。(5回続きの1)
「高齢で被害者が亡くなっており、急がなければだめだ。生きているうちに救済の声に応えてほしい。これは人道的な問題だ」。...
残り1213文字(全文:1463文字)