高度経済成長期1950年代半ばから、第1次オイルショックに見舞われた73年までの驚異的な経済成長。50年代は戦後の復興需要に支えられたが、60年代は製造業がめざましい発展を遂げ、輸出が拡大。池田内閣の「国民所得倍増計画」など経済最優先の政策により10年間の平均実質成長率が10%を超えた。前半は電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビの「三種の神器」、後半は自動車、クーラー、カラーテレビの「3C」が急速に普及して、庶民の暮らしが大きく変わった。のひずみを象徴し、公害の原点といわれる水俣病熊本県水俣市のチッソ水俣工場から不知火海(八代海)に流された排水に、毒性の強いメチル水銀が含まれ、汚染された魚介類を食べた住民らに手足のしびれや感覚障害、視野狭窄(きょうさく)といった症状が相次いだ。1956年に公式に確認され、68年に国が公害と認定した。母親の胎内で影響を受けた胎児性患者もいる。根本的な治療法は見つかっていない。新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと並ぶ四大公害病の一つ。。国の被害者救済策が不十分だったために、多くの被害者が取り残され、全国で訴訟が繰り返されました。新潟水俣病1965年、阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。が発生した新潟県でも争いが今も続き、新潟水俣病第5次訴訟水俣病被害を訴える新潟市などの男女が2013年12月、国と昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に損害賠償などを求め新潟地裁に提訴した訴訟。原告が水俣病かどうかや、九州に続き新潟県でも水俣病が発生したことに対する国の責任の有無が主な争点となっている。は提訴から10年余りを経て、2024年4月18日、新潟地裁で一部の原告に判決が言い渡されます。公式確認から60年近くたってもなお、終わらない新潟水俣病問題を振り返ります。(2回続きの1)=社会状況を伝えるため、写真や紙面は当時のものを掲載しています=
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◆魚の大量死、猫の狂い死に、患者が多発…九州で確認された「水俣病」
水俣病は、熊本県で1956年5月に初めて公式確認されました。
九州南部の水俣湾の周辺に面した地域では、1950年代、魚の大量死や猫の狂い死に始まり、原因不明の神経症状に苦しむ患者が多発。チッソが流したメチル水銀有機水銀の一つ。天然に存在する無機水銀が微生物の働きでメチル水銀に変化し、食物連鎖を通じて魚介類に取り込まれる。食物連鎖の上位にある大型魚や深海魚は、比較的多く含有。体内に大量に入ると、中枢神経に障害などを起こす恐れがある。水俣病の原因物質。を含む排水で汚染された魚を食べたことが原因でした。

新潟市を流れる阿賀野川の河口
そして熊本での確認から9年後の1965年、新潟県の阿賀野川流域でも水俣病が公式確認されました。60年近くたってもなお係争の続く新潟水俣病です。
公式確認の発端は1965年1月、阿賀野川下流の新潟市内で原因不明の疾患がある住民に有機水銀中毒の疑いが浮上したことです。数カ月後、さらに数名の患者を確認。5月31日、新潟大学が新潟県に報告、6月12日に公表されました。

1965年6月13日付の新潟日報朝刊社会面
その後の下流域の住民健康調査で、患者の頭髪から高濃度のメチル水銀が検出され、患者が川魚を食べていたことが分かりました。
1966年3月には、厚生省(現厚生労働省)の研究班が昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場の排水が原因であると報告。しかし、通産省(現経済産業省)が異議を唱えました。

旧昭和電工鹿瀬工場=阿賀町
新潟大と新潟県などが工場の排水口からメチル水銀を検出しても、昭和電工は新潟水俣病が公表された前年の新潟地震によって流出した農薬が原因であると主張し続けました。
◆「裁判で真実を明らかに」国内初の本格的な公害裁判
国による原因究明の結論がなかなか出なかったことや昭和電工が「国の結論が出てもこれに従わない」と公表したことなどから、被害者は「裁判で真実を明らかにする」と踏み切りました。

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新潟水俣病第1次訴訟とは?詳しく見る
1967年6月12日、新潟市などの3世帯13人が、昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に提訴。いわゆる新潟水俣病第1次訴訟で、国内初の本格的な公害裁判です。最終的に原告は77人まで増えました。

前夜からテントで泊まり込みで「判決」を待つ原告の支援者=1971年9月、新潟地裁近く
当時、公害は全国で問題となっていました。新潟水俣病の訴訟は各地に大きな影響を与え、その後、四日市ぜんそく、富山のイタイイタイ病、水俣病の裁判が相次いで起こされました。
第1次訴訟は水俣病と工場排水との因果関係や企業責任を巡って争われました。提訴から4年後の1971年9月の判決で、新潟地裁は昭和電工がメチル水銀を阿賀野川に排出し、それに汚染された川魚を多く食べたことが新潟水俣病の原因だと認めました。

新潟水俣病第1次訴訟新潟地裁判決を受け、肩車に乗り笑顔を見せる原告=1971年9月、新潟地裁前
また昭和電工には、九州での水俣病の原因が工場排水であることを知っていたにもかかわらず、排水を阿賀野川に流していた責任があるとし、「住民の生命、健康を犠牲にしてまで企業の利益を保護しなければならない理由はない」と断じました。被告側が控訴権を放棄していたため、原告側の勝訴判決が確定。同時に新潟水俣病の原因が昭和電工の排水ということも確定しました。

新潟水俣病第1次訴訟新潟地裁判決の報告集会で報告する原告側弁護団メンバー=1971年9月、新潟地裁
チッソを相手取った熊本訴訟でも原告側が勝訴していたことから、新潟水俣病被災者の会と新潟水俣病共闘会議が統一要求をまとめ、昭和電工と、1973年6月に補償協定を締結。認定患者が一時補償金や年金給付、医療給付などが受けられる画期的なものでした。

新潟水俣病の第1次訴訟で勝訴した原告側の報告集会。新潟地裁は支援者や報道陣ら多くの人であふれかえった=1971年9月
◆患者救済の仕組みのはずが…1977年に大きく変化
患者の救済を進める仕組みもつくられました。1970年2月に新潟県と新潟市合同の「公害被害者認定審査会」が設置され、74年には「公害健康被害補償法(公健法)企業による公害の発生で特定の疾病にかかった住民を一定の要件で救済するための法律。1974年施行。大気汚染による気管支ぜんそくや水質汚濁による水俣病などが対象で、公害病患者に認定されると医療費や補償費が支給される。費用は汚染原因者負担が原則。」が施行されました。法律に基づいて患者を認定し補償する制度が始まり現在も続きます。
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水俣病の「認定問題」とは?詳しく見る
公健法の下では、本人の申請に基づき、新潟県か新潟市による医学的検査や審査会での判断を経て、知事または市長が認定処分を行います。認定された人には、医療費や生涯補償費が支給されます。
新潟水俣病の場合、昭和電工との補償協定が法に基づく補償よりも手厚いため、認定患者には補償協定に沿った内容が支給されます。

新潟水俣病の患者認定を判断する新潟県と新潟市の公害健康被害認定審査会=2019年3月
認定申請する人が増え、新潟水俣病問題が解決に向かうかと思われた1977年、状況が大きく変わりました。国が患者認定の基準公害健康被害補償法(公健法)に基づき、認定審査会が水俣病患者かどうかを判定する際に国が示している判断条件。1977年に厳格化し、手足のしびれや感覚障害、視野狭(きょう)窄(さく)といった複数の症状の組み合わせを求めている。最高裁は2013年、「感覚障害だけの水俣病」を認めたが、国はその後も認定基準を見直しておらず、救済を求めた訴訟が各地で相次ぐ。を突如引き上げたためです。
補償される被害者が極端に減り、症状があっても救済されない人を多く生み出しました。それは「認定問題」として今に至るまで続き、裁判が繰り返されてきた根源になっています。
◆長期化した裁判「生きているうちに救済を」、結末は“政治解決”
認定申請を棄却される人が増加する中で、新たな訴訟の動きも出ました。認定されなかった当事者たちが「新潟水俣病被害者の会」を結成。1982年6月、国と昭和電工に損害賠償を求め、新潟水俣病第2次訴訟を新潟地裁に起こしました。

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新潟水俣病第2次訴訟とは?詳しく見る
原告の第1陣は、新潟市など阿賀野川流域に住む94人。原告側は、熊本水俣病の原因を知りながら昭和電工への排水規制を怠ったなどとして国の責任を追及し、被害者の早期救済を求めました。

横断幕を広げ新潟地裁に向かう新潟水俣病第2次訴訟の原告団と弁護団=1982年6月
裁判は長期化し、第1陣の94人に対する判決は、提訴から10年近くたった1992年3月にようやく出ました。提訴後に患者認定された3人を除く91人のうち88人を水俣病と認定し、昭和電工の損害賠償を認めました。一方で国の責任については認めませんでした。
原告と昭和電工は判決を不服として双方が控訴し、裁判はさらに長期化しました。

新潟水俣病第2次訴訟の判決内容を聞く原告ら。新潟地裁は国の責任を認めなかった=1992年3月
一方、損害賠償を求める熊本水俣病の訴訟も、新潟同様に長期化。熊本、新潟ともに被害者の高齢化が進み、原告の間で「生きているうちに救済を」といった声が高まりました。
1995年、大きな転機が訪れます。9月に自民党、社会党、新党さきがけの連立与党が水俣病問題についての最終解決案を示しました。12月には村山富市内閣が「内閣総理大臣談話」を閣議決定。水俣病問題の「政治解決」が図られました。

新潟水俣病被害者の会などと昭和電工による「解決協定」の締結=1995年12月、新潟市
新潟水俣病においても、熊本の政治解決をベースに、被害者の会と新潟水俣病共闘会議が昭和電工との自主交渉によって解決協定を結びました。被害者は一時金260万円や医療費などの支給を受けました。
政治解決に伴って昭和電工と原告は和解し、国への訴えが取り下げられました。第2次訴訟は、第1陣の提訴から13年半を経て終結しました。
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