撮影した映画の上映が予定されている新潟・市民映画館シネ・ウインド周辺で談笑する旗野秀人さん(右)と小森はるかさん=新潟市中央区
撮影した映画の上映が予定されている新潟・市民映画館シネ・ウインド周辺で談笑する旗野秀人さん(右)と小森はるかさん=新潟市中央区

 5月、新潟水俣病1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。被害者の日常を追ったドキュメンタリー映画「阿賀に生きる」(1992年)出演者らを追悼する集会が五泉市で開かれ、1本の映画が上映された。新潟水俣病の被害者に寄り添う旗野秀人さん(75)=阿賀野市=の活動を追ったドキュメンタリー映画「春、阿賀の岸辺にて」(2025年)だ。(5回続きの3)

 「阿賀に生きる」に感銘を受け、映画製作の発起人である旗野さんと交流を深め、22年に岩手県陸前高田市から新潟市に移住した映像作家、小森はるかさん(36)=新潟市秋葉区=が撮影した。

 水俣病になっても豊かに生きる人たちの姿を発信し続ける旗野さんの活動は「生きている間も亡くなった後も、患者さんのそばに居続けるための手段なのでは」と思い、小森さんは旗野さんにカメラを向けた。「本当の支援とは何か、を模索する人」と感じている。...

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