
新潟水俣病に関する記事を広げる小武節子さん。第2次訴訟提起時からスクラップしている=新潟市東区
新潟水俣病1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。の公式確認から60年となった。認定基準の厳格化などで、症状があっても認定を棄却される人が相次ぎ、救済を求める訴訟は今も続いている。国の「住民健康調査」の行方も見通せない。高齢化が進む中、「もう待てない」「生きているうちに解決を」という原告や被害者の切実な思いは強まっている。(2回続きの2)
語り部もまた、新潟水俣病問題の長期化に危機感を感じている。「被害者は高齢化が進む。1日も早い解決を」。被害者救済に向けた活動で長く最前線に立つ小武節子さん(88)=新潟市東区=は強いまなざしで語る。
自身が参加した第2次訴訟は13年半の末に和解した。その後、2001年からは語り部として、被害者の...
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