間違えないようにいくら気をつけても、やはり間違う。原因をその都度考え反省するが、忘れたころにまたしても…。絶対に間違わぬ人はいるのだろうか

▼行動神経科学を専門とする櫻井芳雄さんは、間違いは不可避だと明言する。脳は精密機械ではない。脳は間違えながら働くようになっている。だからこそ斬新な発想が生まれるのだと解説する。そう教わると、間違うことも悪いことではなさそうだ

▼ただし機械のような脳もまれにあるのだという。1920年代のソビエト連邦で記者をしていた青年は、一度見た物をコピー機のごとく正確に記憶することができた。彼の記憶力を巡る検査は30年も続いたというから、極めてまれな能力だったのだ

▼青年は50個ほどの言葉を並べた表を3分間見ただけで記憶し、表に並んだ順番通りに答えてみせた。数年前の表も見事に思い出す。うらやましい。それほどの記憶力があれば、約束を失念することも、ミスを繰り返すこともないのかも

▼だが彼は、もがき苦しんでいた。物事を忘れることができないのだ。覚えるのは苦もないのに、その逆ができない。忘れたいことを書き出してみたり、それを燃やしてみたりしても駄目だった。苦い記憶がいつまでも頭を離れなければ、眠れたものではないだろう

▼彼の悲劇を思うと、あれこれ忘れてしまうことは心身を穏やかに保つために欠かせない仕組みということか。わが脳は、いま何のために立ち上がったのかさえ思い出せない。幸せな忘却力だ。

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