戦後80年、昭和100年。今年は二つの大きな節目に当たる。その陰に隠れてしまっているが、新潟県政史に残る出来事からも節目の年である。県庁が今の新潟市中央区新光町に移転して40年となった
▼以前は現在の新潟市役所庁舎の場所に立っていた。半世紀の歴史を刻んだ庁舎の移転は「百年の大計」と呼ばれるほどの一大事業。それだけに場所の選定は紆余(うよ)曲折を経た
▼県は当初、鳥屋野潟南西部を最有力候補とした。ところが、現庁舎が建つことになる日本軽金属新潟工場跡地が後から候補に浮上し、県当局は急旋回する
▼不可解な意思決定に、日軽金跡地への移転条例案を審議した1980年4月の県議会臨時会で、当時の君健男知事は激しい集中砲火を浴びた
▼君知事は鳥屋野潟南西部案では地盤が弱いと押し切ろうとした。一方、納得しない一部県議は移転を巡る黒いうわさを追及。日軽金側から「袖の下」を受け取ったとの疑惑をぶつけ、君知事は火消しに追われた。すったもんだの末、条例案は可決されたが、日軽金跡地案が唐突に浮上した謎が解明されることはなかった
▼地上18階、当時県内最大の高層建築だった新庁舎は85年6月に開庁を迎えた。以来、県庁の主は花角英世知事で6人目となる。その現知事は柏崎刈羽原発の再稼働を容認するか否かの判断を迫られている。「いずれ結論を出す」と繰り返すが、国の圧力が強まる中、どんな着地点を示すか。県民が「なぜ」と疑念を抱かぬように説明を尽くしてほしい。