戦後80年の今年、全国の地方紙と連携した企画「あの時私は」が本紙に随時掲載されている。空襲や強制疎開など、戦争体験者の生々しい証言に胸が痛む
▼印象的だったエピソードに、京都市の建物疎開がある。空襲などの延焼防止を目的とし、男性は突然、自宅からの立ち退きを命じられた。取り壊された家の跡地は戦後も返還されず、復興の名の下に五条通の拡幅に使われた
▼男性の母親は終生、自宅跡地を訪れなかったという。その胸中にはどんな思いがあったのだろう。幅50メートルとなった五条通は国道1号となり、同時に9号にも指定された
▼沖縄にも、かつて1号線と呼ばれた国道がある。那覇市と鹿児島市を結ぶ道路だ。戦後、沖縄を軍政下に置いた米軍が、最初に取り組んだのがこの国道の整備だった。沖縄の人々も工事に駆り出されたという。南部の軍港から島内各地の基地へと物資を運ぶ主要道路だった
▼1972年の本土復帰後に、国道58号となった。今も島の南北を結ぶ重要な幹線道路だ。先日、その58号を通る機会があった。遠くには新しい住宅地が見えた。米軍の軍用地が返還された跡地だという。商業施設の建設も進み、軍用地だったころより大きな経済効果をもたらしていると、地元紙の記者から聞いた
▼米軍駐留は一定のインフラ整備や雇用創出に寄与したかもしれないが、「基地が沖縄経済を支えてきた」という見方は一方的で現実とかい離しているという。節目の年、沖縄の人の語る言葉に耳を澄ませたい。
