爆発事故があったウクライナ・チョルノービリ原発4号機の制御室=4月、チョルノービリ(共同)
爆発事故があったウクライナ・チョルノービリ原発4号機の制御室=4月、チョルノービリ(共同)
1986年8月に撮影されたチョルノービリ原発(タス=共同)

 1986年4月26日未明、ソ連(現ウクライナ)のチョルノービリ(チェルノブイリ)原発4号機が爆発した。事故から40年。一帯では放射線汚染が続き、2022年2月のウクライナ侵攻後はロシアの無人機が飛び交う。戦後最悪の原子力災害の傷痕は癒えない。(チョルノービリ共同)

<チョルノービリ原発事故> 1986年4月26日、旧ソ連ウクライナのチョルノービリ原発4号機が試験運転中に爆発、ベラルーシやロシア、欧州各国が放射性物質で汚染された。数十人が急性放射線障害で死亡。周辺で甲状腺がん増加が指摘され、がんなどの死者は推定4千〜9千人。深刻度を示す国際尺度は東京電力福島第1原発事故と並ぶ最悪の「レベル7」。2022年のロシアによるウクライナ侵攻を受け、日本政府はウクライナの地名をウクライナ語による読み方とし、チェルノブイリをチョルノービリに変更した。
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現地ルポ 「不法」に暮らす民

 「原発事故にも戦争にも人間は無力だ。逃げるか、受け入れるしかない」。ウクライナ北部チョルノービリ(チェルノブイリ)原発付近の立ち入り禁止区域で「不法」に暮らすワレンチナ・クハレンコさん(87)は語った。放射線汚染もロシアの攻撃も恐れるものは何もない。夫が眠る故郷で死にたい。それだけだ。

 今年3月、当局の許可を得て、原発から半径30キロ圏内の立ち入り禁止区域に入った。ここには、避難先から自主帰還した「サマショール」と呼ばれる人が暮らす。クハレンコさんもその一人だ。

取材に応じる「サマショール」のワレンチナ・クハレンコさん=3月、チョルノービリ(共同)

 最大2千人いたとされるサマショールは2021年には約100人に。大寒波と停電が重なった今年の冬はさらに減り、実際に暮らしているのは10人程度とみられる。

 娘と息子を呼び寄せ、3人で暮らすクハレンコさんは「集落に暮らすのは自分たちだけになった」と話し、40年前の悲劇を振り返った。

 あの日、港で働いていた夫のニコライさんは、原発4号機の方向に閃光(せんこう)を見た。夜勤明けで帰宅すると「口の中がひりひりする。とにかく気分が悪い」と漏らした。朝には住民にヨウ素剤が配られ、クハレンコさんは4号機に投入する砂袋を運ぶ作業に駆り出された。

 それが終わると強制避難のバスに乗せられた。1カ月後、貴重品を持ち出すため一時帰宅すると、自宅は放射線汚染を理由に取り壊されていた。

ウクライナ・チョルノービリの自宅前に立つ、「サマショール」のワレンチナ・クハレンコさん=3月(共同)

 それでも、その年のうちに禁止区域に戻り新居を構えた。汚染を恐れず畑で野菜を育て、川で魚を釣って暮らした。近所のサマショールたちはキーウへ移ったり、亡くなったりして交流は減った。08年にニコライさんも70歳で亡くなった。

 22年2月、ロシアが侵攻を始めると、初日に原発一帯が制圧された。クハレンコさんの家の周りにもロシア兵がうろつくようになった。彼らに向け庭先にメモを掲げた。

 「1941年の戦争は私の幼少期を暗いものにした。86年に故郷を奪われた。そしてまた戦争だ。死ぬまで普通に生きることを許してくれないのか」。メモを読んだのか、兵士は庭に入らず、何も取らず立ち去った。

 占領は1カ月で終わったものの、その後も戦争は続いた。食料は子どもたちが立ち入り禁止区域外の村で買ってきてくれる。薬局はないが、病院への送迎もある。

 クハレンコさんはアコーディオンを奏でて孤独を紛らわせてきた。すると愛犬ダンキが寄ってきて、音に合わせるように鳴いた。そのダンキも昨年4月に死んだ。

 「さみしくないですか」。記者の問いを遮るように、こう言った。

 「故郷で人生を終える。それが、私が望む幸福です」...

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