1945年8月15日の太平洋戦争終戦から今年で76年になる。戦時下の暮らしを知る人の高齢化が進み、若者が直接体験を聞く機会は少なくなっている。新潟日報社がNHKや各地の新聞社と連携して展開する「#あちこちのすずさん」キャンペーン。今年は子どもたちが記者になり、お年寄りに取材した。

 「配給ってうれしいことじゃなかったんだ」。7月上旬、新発田市の小学5年山田翔聖(とあ)さん(10)は曽祖母の石井スミさん(94)から太平洋戦争中のつらい思い出を聞いて驚きの声を上げた。

 翔聖さんは戦中の暮らしについて聞くためスミさんを訪ねた。スミさんは目を細め「品不足でなんにもなかったんだよ」と優しく語り掛けた。

 翔聖さんが戦時中の出来事に関心を持ったのは、国語の授業で戦争を題材にした物語を読んだことなどがきっかけだ。この日は母の絵美子さん(41)、祖母の石井恵子さん(65)と共にスミさんの話に耳を傾けた。「農家なのに腹いっぱいには食べられなかった」。4世代が顔をそろえる中、昨日のことのように語った。

 スミさんは本田村(現新発田市月岡)の出身。翔聖さんと同じ年の頃に日中戦争が始まり10代のほとんどが戦時下だった。国にコメを提供する「供出」の影響で家に残る食糧はわずかだった。「戦地の兵隊さんに送ったんだ」。翔聖さんはうなずきながら聞いた。

 今でもスミさんの脳裏に焼き付いた光景がある。「コメの収穫量が少ない人は本当に切なかった。泣いていたお母さんを見たよ」。夫が戦地に出征した近所の女性だった。働き手が減った上、食べ盛りの子どもを育てなければならずつらそうだった。

 翔聖さんは教科書で読んで関心があった「配給」について聞いた。「集落のみんなで分けた。ただ、魚はぐったぐたなの」とスミさん。生きが悪い魚でも喜んで食べたという。「下着も配給。シャツにパンツにいろいろ混ざっていた」と言い、必要な時でも自分に合った品物は手に入らなかった。

 翔聖さんは「配給って限られた物しかなくてうれしい気持ちだけではなかったのか」と驚いた。「物がないからお金なんて紙くずと同じだった」とスミさんは顔をしかめた。

 スミさんは夫の秋栄さん(1985年に62歳で死去)の従軍体験も伝えた。乗っていた船が襲撃され、必死で脱出したという。「海で15時間くらい浮いて、その後助けられたんだって」と打ち明けると、翔聖さんの母・絵美子さんは「おじいちゃんがその時生き残らなかったら私も翔聖もいないんだよね」と複雑な表情。翔聖さんは静かに聞き入った。

 スミさんはこれまで家族に戦時中の暮らしの様子を詳しく話す機会はなかった。「子どもの頃に戻ったみたいだった」と喜び、「今は幸せ。戦争は絶対にいけないよ」と翔聖さんに思いを伝えた。

◎友だちに伝えていく

山田翔聖さん感想 私は、ひいおばあちゃんが戦争当時どんな生活を送っていたのか、当時の遊びや学校でどんなことを勉強したのかを学ぶため、ひいおばあちゃんに取材を行いました。そこで、ひいおばあちゃんは「農家だったけれど、コメを兵隊さんに送るため自分たちの作ったコメも腹いっぱい食べることができなかった」「昔は遊び道具がないからなわとびやおにごっこなど道具のいらない遊びをした。男の子は山でいろいろな花を食べた」と話していました。

 これらの話のなかで、一番印象に残ったのは、「今はお金を払えば何でも買うことができるけれど、当時は、それがあたりまえのことではなかったということ」です。昔はお金があっても品不足で物を手に入れることができなかったそうです。「お金は紙くずと同じだったよ」という言葉が強く心に残りました。

 私は、日に日に薄れていくこの戦争の話をこれから、学校などのともだちや、未来の子どもたちに受け継いでいきたいです。

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◆戦時下の日常 エピソードをお寄せください

 新潟日報社は「#あちこちのすずさん×まいにちふむふむ」の企画で、身近なお年寄りから聞いた、戦中戦後の暮らしにまつわるエピソードを募集しています。取材に挑戦してみたい子どもたちも募集します。

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