「とにかく東京に出たかっただけ。俳優になるなんて思ってなかった」。テレビドラマや舞台などで幅広く活躍する俳優の高橋克実さん(62)は、新潟県三条市の金物雑貨店の長男として生まれた。今や誰もが知る人気俳優だが、もともと役者の道を志していたわけではなかった。ブレークは30代後半。長い下積み時代を経て、大勢のファンに愛される今がある。
2016年に創刊した新潟日報の情報紙「おとなプラス」は11月1日で、7周年を迎えた。創刊日を記念し、高橋さんに故郷への思いとともに、俳優人生を振り返ってもらった。
(報道部・徐裕子)
憧れた映画界、アルバイト生活で役者を目指し続けた
新潟県の三条東高校卒業後、東京の予備校に通うため上京する。「高3の11月に大学受験すると言った。親は寝耳に水。でも間違いなく落ちるだろうから、予備校の段取りはしておいた。『東京の大学に行くには、東京の予備校に行く必要がある』と言いくるめました」
両親は高校卒業後に県外で修業させて家業を継がせるつもりだったが、「新潟にも予備校はあるわけだから、家の仕事をする前に猶予期間を与えようと、だまされてくれたんだと思う」。
「東京に行く名目で元々大学に行く気はなかった」が、予備校の寮で、大の映画好きの「上野君」と出会う。「すごく詳しくて、たくさん勧めてくれるからどんどんのめり込んだ」。映画界への憧れが強くなっていった。
若者に人気を集めたテレビドラマ「傷だらけの天使」「俺たちの旅」のロケ地巡りなどもした。「今でいう聖地巡礼。めちゃくちゃ充実していたけど、完全なオタク」と笑う。
浪人生活は2年。親に仕送りしてもらうため、コレクトコール(通話料金を着信者に負担してもらう)で電話をかけるが、「交換の人から『先方から切っていいと言われました』と半ば勘当状態。親はあきれてました」。
その後もアルバイトをしながら、映画界に近づく道を模索する。とにかく映画の現場に入りたい一心でオーディションを受けては落ちまくっていた。当時、有名な映画やドラマに劇団出身の役者が出ていたため、知り合った仲間たちと劇団をつくって公演した。
「そのうち誰かの...












