鉄道教習生の遺影。上段左から池田トシさん、齋藤芳乃さん、渡辺修さん、下段左から新保安枝さん、田玉良子さん、竹本友子さん
鉄道教習生の遺影。上段左から池田トシさん、齋藤芳乃さん、渡辺修さん、下段左から新保安枝さん、田玉良子さん、竹本友子さん

 1945年8月1日の長岡空襲1945年8月1日午後10時30分から1時間40分にわたり、米軍が長岡市上空で実行した無差別爆撃。125機の爆撃機B29が飛来し、16万発以上の焼夷弾(しょういだん)を投下した。市街地は8割を焼失。7月20日の模擬原爆の犠牲者も含め、判明しているだけで1488人が亡くなった。は、国鉄職員としての技能を高めようと、故郷を離れて学んでいた若き教習生の命を奪った。9人の少女はどんな思いを抱いて長岡にやって来たのか。大勢の教習生は助かっており、何が運命を分けたのか。犠牲者を知る人たちや遺族の証言をたどり、教習生の足跡と面影を追った。(長岡支社・後藤千尋)=3回続きの1=

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 「女ばかりの停車場 新鐵(てつ)が『模範女子監理驛(えき)』を指定」。1944年9月の新潟日報に記事が載った。国鉄の新潟鉄道局は県内の4駅を「模範女子監理駅」と命名し、駅長、助役以外を全て女性にしたという記事だ。太平洋戦争末期、兵隊に取られた男性に代わり、駅では女性職員が活躍していた。

1944年9月1日の新潟日報

 長岡空襲で亡くなった新潟鉄道教習所の生徒9人は、国民学校高等科などを卒業し45年春、新潟、長野、山形、秋田を管轄する新潟鉄道局に採用され、自宅近くの駅などに勤務した。

 新潟市山木戸(現新潟市東区)出身の渡辺修さんは...

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