空襲後に長岡市大手通り十字路付近を撮影した写真。裏には「三日午前 安栄館を望ム」と書かれている。中央の建物が安栄館、右は市公会堂(長岡戦災資料館提供)
空襲後に長岡市大手通り十字路付近を撮影した写真。裏には「三日午前 安栄館を望ム」と書かれている。中央の建物が安栄館、右は市公会堂(長岡戦災資料館提供)

 1945年8月1日の長岡空襲1945年8月1日午後10時30分から1時間40分にわたり、米軍が長岡市上空で実行した無差別爆撃。125機の爆撃機B29が飛来し、16万発以上の焼夷弾(しょういだん)を投下した。市街地は8割を焼失。7月20日の模擬原爆の犠牲者も含め、判明しているだけで1488人が亡くなった。は、国鉄職員としての技能を高めようと、故郷を離れて学んでいた若き教習生の命を奪った。9人の少女はどんな思いを抱いて長岡にやって来たのか。大勢の教習生は助かっており、何が運命を分けたのか。犠牲者を知る人たちや遺族の証言をたどり、教習生の足跡と面影を追った。(長岡支社・後藤千尋)=3回続きの2=

 1945年8月1日午後10時半、米軍の無差別爆撃が市街地を襲った。長岡市旭町2にあった新潟鉄道教習所長岡分教所2階の宿舎には、犠牲になった9人と芝井(旧姓・新保)良子さん(故人)を含む28回電信科の75人がいた。...

残り1239文字(全文:1507文字)