歴史に「もし」はないという。英国の歴史学者E・H・カーの持説とされる。カーは自著「歴史とは何か」の中で〈歴史上の「たら・れば」を談話室の戯れとして遊ぶことは、いつでもできる〉と語る

▼歴史というほどの経過はないが、戯れを承知で空想する。もし昨年の自民党総裁選で高市早苗氏が敗北していたら-。政治の景色はまるで違っていただろう。ついでに戯れてみる。もし柏崎刈羽原発が現在も停止したまま、再稼働が知事選の争点になっていたら-

▼投票率がこれほど寂しくはなかったはずだ。県民はもっと悩んだだろう。再稼働の是非のみならず、その論点だけで知事を選んでいいのかと。考え、迷い、自ら勉強したり、周囲と議論したり

▼そうした民主主義を鍛える貴重な機会を、少なからぬ有権者が失ってしまったように思えて仕方ない。争点になるべき問題は、既に手の届かぬところで決まった。広範な県政課題に目が向けられただろうか

▼結果として3選を果たした花角英世知事の、そして自民党県連の、したたかさが勝ったといえる。花角県政の継続を求める民意が示されたが、県民の政治参加の意欲がそがれた部分もあるとすれば、県政の損失ではないか

▼カーは自著でこうも言う。〈過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分理解できるようになる〉。しかる後に、光に照らされて浮かび上がるものは何か。為政者も有権者も注意深くあるべきだろう。