「新聞は読者が最後の一人になるまで出し続ける責任がある」。サンパウロ新聞の初代編集長で90歳すぎまで健筆を振るった内山勝男(上越市出身)の言葉を胸に刻み、発行を続けてきた。しかし、新潟日報に報じられたように、昨年末で72年の歴史の幕を閉じざるを得なかった。断腸の思いである。

廃刊となったサンパウロ新聞。日本の「今」を日本語で伝え続けた

 40年前、弊紙と同じ海外で発行する邦字紙は北米、南米に30近くあったが、現存しているのは北米4紙、南米3紙だけだ。理由は、邦字紙が現地の日系社会と運命共同体だったからである。

 1世中心の日系社会で、邦字紙は必要不可欠だった。読者の耳目となり、遠く離れた故国の情報を新聞で知り、同胞の動向を知ることができた。

 ブラジルでは終戦直後、ポルトガル語を理解できなかった日本人移住者は、世界で何が起こっていたのか、正しい情報を知ることができなかった。「日本が勝った、負けた」と殺人事件にまで発展、多くの人が犠牲になった「勝ち組負け組」事件が起こった。この事件を契機に弊紙は創刊された。日系主要団体と二人三脚で日系社会の再構築に力を入れた。

 1950年代半ばから60年代にかけて新しい移住者が到着、日系社会も活気づく。しかしその後、移住者は激減。80年代以降2世に世代交代したものの、1世がつくり上げた日系団体や各県人会は活気があり、大きな役割を果たした。

 21世紀に入り、2世、3世が日系社会の中心を占めるようになる。それが顕著になったのは、2008年のブラジル日本移民100周年祭だった。1世はかやの外に置かれ、2世主導の祭典となった。1世主体の日系社会が変わり始めていた。

 それから10年。昨年のブラジル日本移民110年祭は、3世の若い人たちが素晴らしい祭典を行った。この祭典を見ながら「邦字紙の役割は終わった」ことを自覚した。

 1世たちは若い日系人と日本との絆を深めることを願っている。われわれはこれから、両国の懸け橋となる人材を育てることに力を注いでいきたいと考えている。


鈴木 雅夫さん(サンパウロ新聞社長)
 (鈴木さんは母が三条市出身です)