【2022/03/08】

 新潟市東区の新潟新幹線車両センターの先に「車止め」がある。上越新幹線のレールの終点。直線で4キロほど先に新潟空港があるが、新幹線開業以来40年間、途切れたまま伸ばせずにいる。同じ1982年に開業した東北新幹線が北海道まで延伸したのとは対照的だ。

 「このどん詰まり感こそが、新潟に漂う閉塞感の象徴だ」。亀田商工会議所会頭の五十嵐豊(66)は唇をかむ。

上越新幹線の車止め。新潟空港までは直線で4キロほどだ。レールが延伸される日は来るのだろうか…=新潟市東区 

 80年代から課題となってきた新幹線の新潟空港乗り入れ構想。初めて練ったのは旧国鉄官僚で県内での勤務経験がある鬼頭誠(故人)と、その弟分で国鉄OBの五十嵐だった。

 鬼頭は東北・上越新幹線の上野から東京駅への延伸を実現させた人物。発想の豊かさと行動力を元首相田中角栄に買われ、全国の新路線計画に携わっていた。

 鬼頭は周囲に発破をかけた。「田中先生は『日本海縦貫新幹線がいずれ必要になる。終点が新潟では駄目だ。庄内、青森への延伸を視野に入れ、車両基地をここに置いたんだ』と熱く語っていた。先生の思いを次世代に継がなければ」

 膨大な費用がかかる縦貫新幹線の“序章”として着想したのが、新幹線乗り入れによる新潟空港の「首都圏第3空港」化だった。「これを皮切りに縦貫新幹線着工を目指すはずだった」と五十嵐は言う。

 後背地に考えたのは広大なユーラシア大陸だ。当時は成田、羽田両空港の発着便が増え続け、需要をどうさばくかが国家的課題だった。そこで新潟空港を首都圏と直結させ、旧ソ連極東や中国、朝鮮半島のほか、欧州便も集めて、両空港を補完する構想だった。

 田中は85年に倒れて表舞台を去ったが、構想は知事や国会議員らが引き継いだ。JR幹部も乗り気で、「90年代初めには実現にリーチがかかっていた」(五十嵐)という。

 しかし、約30年間も足踏みが続き、構想はかすんでいった。(敬称略)