
戦場の兵士に送る慰問袋を作る国防婦人会。夫が戦没し、苦労した家庭も多い=1940年、新発田町(現新発田市)=「新潟県民の太平洋戦争」から
戦時下の日本は、戦闘に関わらない一般国民やその生活を総じて「銃後」と呼んだ。兵隊の送り出し、食料や軍用品の生産など、人々の暮らしは後方支援に組み込まれた。子どもたちは労働力とみなされ、学ぶ機会は大きく制限された。戦後80年を迎え、今では聞かれなくなった銃後を、県民の証言からひもとく。(5回続きの5)
父親に届いた召集令状で、残された母子2人の生活は一転した。1941年、新潟市中央区の丸山喜美さん(85)が1歳の時、福島県出身で鉄道職員の父小田秀二さんが出征。新潟市の社宅を出なくてはならず、母喜代さんは秋田市にある自身の実家を頼った。
実家の1部屋を間借りしたが、歓迎されてはいなかった。働くあ...
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