セイデンテクノ(新潟県佐渡市)は、電流を制御する抵抗器や精密機械の加工などを手がけ、宇宙航空研究開発機構(JAXA)のロケットや人工衛星にも採用実績がある高品質のものづくりを進めている。技術と知恵で時代の変化に素早く対応し、離島のハンディを乗り越えてきた。近年は農産物加工事業に取り組むほか、デジタルトランスフォーメーション(DX)も積極的に導入。「佐渡が島から世界へ」を合い言葉に挑戦を続けている。
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セイデンテクノの実質的な創業者は、佐渡市出身である現会長の柴原行雄(ゆきお)氏(77)だ。1963年に高校を卒業し、親族が営む東京の電気店でのアルバイトを経て、松下電器産業(現パナソニックホールディングス)に入社。営業マンとして全国を駆け回った。
しかし2年半後、体調を崩した父親の世話をするために退職。帰島すると、電化製品の販売や電気・水道工事の仕事に就いた。
ある日、佐渡出身で東京にいる知人から情報がもたらされる。関東に拠点がある「精電舎(せいでんしゃ)」が、抵抗器を製造する工場を佐渡島内に設けるという話だった。
高度成長期を迎えた国内では電化製品の普及が始まり、抵抗器を増産する必要に迫られていた。電気関連の仕事が好きで地元で働きたいと強く願っていた柴原氏は早速、求人に応募。幸いにも工場の幹部候補として採用される。

精電舎佐渡工場として創業したセイデンテクノ=1973年ごろ、佐渡市豊田
当時の真野町豊田地区の海岸近くにあった旧製粉工場の建物を活用し、「精電舎佐渡工場」の操業が始まる。73年のことだった。
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しかし、程なくして第1次石油危機が襲う。精電舎佐渡工場は受注生産が主だったこともあり、大打撃を受ける。業績は回復せず、本社サイドはわずか1年で佐渡工場の閉鎖を決めた。
柴原氏は、本社に呼ばれて工場の閉鎖を知り、ショックと怒りに震えた。ただ、その場で意外な提案があった。社長から「佐渡の工場を経営してくれないか」と頼まれたのだ。厳しい環境にある工場を託されて悩んだが、「全てを委ねてくれるなら」と結果的に受け入れる。
柴原氏がまず着手したのが工場の移転だ。豊田の工場は建物の老朽化に加え、海に近いことで塩害の不安が常に付きまとっていた。金融機関などから資金を調達し、約3キロ離れた竹田地区に工場を移す。社名は同じながら別法人として再スタートを切り、30歳で社長に就く。
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借金を抱えて船出した会社を率いるため、柴原氏は東京を中心に営業活動に奔走する。佐渡に戻るのは金曜日の午後。土曜日は現場で指示などをこなし、日曜日には再び東京へ向かう慌ただしさだった。
創業 | 1973年 |
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資本金 | 2000万円 |
売上高 | 約9億5000万円(2022年3月期) |
事業内容 | 抵抗器製造販売、精密機械加工など |
従業員数 |
60人(グループ全体で120人) |
経費節減のため宿泊施設は利用せず、オールナイト上映をしていた映画館などで夜明けを待った。朝になって列車が動き出すと、企業を何社も回った。しかし、売り上げの回復には至らなかった。
「有名大学を出ていないと相手にしてもらえないのだろうか」。苦しい日々を送っていた柴原氏に、77年ごろ転機が訪れる。新潟県出身の田中角栄元首相に、結婚式で仲人をしてもらった知人の縁で数回にわたって面会することができたのだ。
「良い製品を作っても相手にしてもらえない。どうしたらいいでしょうか」。率直に尋ねると、田中元首相は「発想力と創造力でアピールしてみてはどうか」と助言した。
大手メーカーに追随しているだけでは、中小企業は太刀打ちできない。「目の前の霧が一気に晴れる思いだった」と柴原氏は振り返る。「営業がうまくいくように」と、田中元首相は紹介状もしたためてくれた。成功につながる光明が見えつつあった。