
新潟県上越市(旧直江津市)出身の建築家、渡邊洋治(1923~83年)は特徴的な作品を手がけ、「異端の建築家」と呼ばれた。代表作に善導寺(新潟県糸魚川市)、その個性的な形から軍艦マンションと呼ばれた第3スカイビル(東京)、龍のとりでと呼ばれた医院(静岡)などがある。

父は大工の棟梁で、長男の渡邊は後継ぎとして期待されたが、教師の強い勧めで高田商工学校に進学。卒業後は日本ステンレス直江津工場に就職した。
渡邊のおい、佐藤武志さん(64)は「この会社に就職したことが、伯父の人生を変えた」と語る。上司の西田勇という人物が大阪府営繕課勤務の経歴を持つ建築家で、渡邊も「西田課長より建築の世界を教えていただいたこと」が幸運だったと語っている。
44年、船舶兵としてフィリピン・セブ島に入営し、竹とヤシで兵舎を造ったという。戦後、日本ステンレスに復職したが、建築家になるため上京。47年に久米建築事務所(現久米設計)に入所し、54年まで在籍した。翌年、世界的建築家ル・コルビュジエの弟子で、早稲田大の助教授だった吉阪隆正の研究室助手となった。
同じ頃、建築家・村野藤吾の事務所に入る話もあったが、先に決まった吉阪の元へ落ち着いたという経緯がある。その報告を受けた村野は、研究室助手という半分、学生のような立場を心配し、経済的援助を申し出たという。渡邊は辞退したが、村野の心遣いを生涯忘れなかった。村野は晩年、糸魚川市の谷村美術館を設計した。
58年に渡邊建築事務所を開設。その傍ら早稲田大で講師を務め、後進の育成にも当たった。事務所では自らを「艦長」と称し、事務所員に対して過激な軍隊的教練をしていたという。
独立から25年後、渡邊は60歳で急死。建築史家の藤森照信さんは「もっと長く生きてほしかったと願わずにはおれない人物」と評している。今年は渡邊の生誕100年、没後40年に当たる。残された作品を訪ね、実像に迫った。...