
太平洋戦争で市街地が無差別に爆撃された長岡空襲から、1日で80年となった。1945年8月1日、米軍のB29が落とした924トンもの焼夷(しょうい)弾で、長岡の市街地の8割が焼き尽くされた。死者は、この12日前に投下された模擬原爆による犠牲者4人を含め、判明しているだけで1489人。今年新たに犠牲者1人が確認され、1日付で戦災殉難者名簿に加えられた。
名簿は当初は1461人だったが、調査が進む中で28人が追加されてきた。

戸籍などが焼失したため、空襲による正確な死者数は不明だ。分かっていない犠牲者が、まだいるのではないか-。新潟日報社が過去の記録を洗い直して探すと、目撃証言が場所ごとの犠牲者数と合わなかったり、名簿にない犠牲者の名前が載っていたりすることが分かってきた。
【調査方法】「長岡戦災資料館二十周年記念誌」に掲載された戦災殉難者名簿の氏名、年齢、死亡日時、場所などをデータ化し、空襲に関する新潟日報記事や文献・資料と突き合わせた。照合する記述がなかったものも含め、確認した記事は1970年代から現在までの連載など200本超。文献・資料は「長岡空襲の体験記録」「長岡空襲60人の証言」「Penac」など22点。
1945年8月1日の長岡空襲では、市街地にある平潟神社と神明(しんめい)神社で、多数の人が亡くなったことが知られる。殉難者名簿で数えると、それぞれの死者数は275人、141人だった。一方で、人々が火勢から逃げ込んだ柿川は11人のみとなっている。しかし、柿川に関する証言を調べると、11人よりは多かった可能性が浮かぶ。

「祖父だけでも十数体の遺体を(柿川から)引き上げたそうだ」「柿川の橋も焼け落ち、...
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