
1945年8月1日の長岡空襲から80年を迎える。あの日の夜、16万発以上の焼夷(しょうい)弾によって街は焦土と化し、人々の営みは失われた。長岡花火は、悪夢のような惨状から立ち上がろうとする人々と共に歩んできた。
戦争で中止となっていた長岡花火が復活したのは、空襲から2年後の47年。復興途上の街を照らす花火は、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神で復興を目指す市民の希望となった。
「夜空に一大花園、歓声あがる煙火大会」。47年8月2日の新潟日報は、信濃川右岸堤防上に桟敷が設けられ、3万人余りの観衆が花火を楽しんだことを報じた。再開を待ちわびた人々の歓喜、熱気が伝わってくる。
長岡花火の原点は慰霊、復興、そして平和への祈りだ。花火大会の冒頭、慰霊の花火「白菊」が厳かに咲き、薄暮の空を照らす。
大輪に込められた思いは、音と光と共に見る人々の心に深く刻み込まれ、未来へ受け継がれていく。
◆明治期に起源、終戦2年後に復活

長岡花火の起源は1879年にさかのぼる。神社の祭礼で、遊郭関係者が資金を出し合って350発の花火を打ち上げた。1926年に正三尺玉の打ち上げに成功し、翌27年にはスターマインが初登場するなど盛り上がりを見せた。しかし時局は戦争へと傾き、38年には中止に追い込まれた。
1945年8月1日。長岡空襲で市街地の8割が焼失した。模擬原爆で亡くなった人を含め、判明しているだけでも1489人が犠牲となった。
市民は復興に立ち上がり、1年後の46年8月1日に長岡まつり前身の「長岡復興祭」を開催。翌47年に、花火大会が10年ぶりに復活した。

47年は8月1、2日の2日間、信濃川の中州で計350発余りが打ち上げられた。当時の「煙火目録」を見ると、現在でもなじみのある酒造会社などがスポンサーに名を連ねている。
「今みたいに連続してどんどん上がらないけれど、楽しい街に戻るんだって希望が湧いた」。長岡市本町1の「器の店ふじい」の藤井文江さん(87)は、花火が再開した日の感動を今でも覚えている。
48年には8月2、3日を「花火大会の日」とし、現在の日程で開催されるようになった。

長岡花火は年を追うごとに進化する。53年、長生橋にナイアガラが登場し、86年にはレーザー光線やシンセサイザーの音色とともに花火が打ち上げられた。

2000年代に入ると、NHK大河ドラマのテーマ曲に乗せた「天地人花火」、長岡花火を描いた映画の公開を記念して始まった「この空の花」などのミュージックスターマインが上がるようになった。

近年は日本三大花火大会の一つとされ、全国からさらに注目されるようになった。...