
戦場において、生と死は常に紙一重だった。どん底から生き延び、戦い終えても苦しみは続いた。国民一人一人の命は軽んじられた。決して繰り返してはならない時代を知る証言者たちは、戦争の果てに何を思うのか。戦後80年の今、その声に耳を傾けた。(9回続きの1)
「軍隊は全て命令。無理だからとか、物資がないからとかそういうのは関係ない。命令には100%従わないといけない」。太平洋戦争で日本軍がインド北東部へ侵攻した「インパール作戦」に従軍した石打村(現南魚沼市)出身の今泉清詞さん(101)=埼玉県鶴ケ島市=が当時を思い返す。補給を軽視した作戦は失敗し、撤退路は「白骨街道」と言われた。凄惨を極めた戦地に、個人の意思や尊厳はなかった。
1944年3月に始まった作戦はインドの英軍拠点インパールの攻略を目指した。ビルマ(現ミャンマー)から川幅最大600メートルのチンドウィン川や標高2000メートル級のアラカン山脈を越える行軍にも関わらず、持たされた食糧は3週間分。すぐに尽きた。空輸で物資を確保した英軍との差は決定的だった。撤退路は飢餓や病気に苦しんだ日本兵の遺体が連なり、日本側の戦死者は約3万人とされる。
18歳で志願した今泉さんは陸軍高田歩兵第58連隊の一員として参加。中隊の事務係だった。上からの指示で連隊本部に合流していた間、たった2日間で中隊は全滅した。「一緒に死ねばよかった」と自責の念にかられつつ、任務を続けなければならなかった。「わずかな差で生きたり、死んだりした。毎日が一番つらかった」
中隊を失い、敗走した。草や蛇を食べて飢えを...
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