
2011年の東日本大震災2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源にマグニチュード(M)9.0の地震が発生し、最大震度7を観測。東北地方を中心に大津波が発生した。東京電力福島第1原発は電源を喪失して炉心溶融(メルトダウン)が起き、原子炉建屋が水素爆発で損壊、大量の放射性物質が拡散した。警察庁によると、2025年2月末時点の全国の死者は1万5900人、行方不明者は2520人。復興庁によると、避難中に体調悪化や自殺で亡くなった震災関連死は24年末時点で3808人に上る。東京電力福島第1原発事故の影響で、福島県では富岡町や大熊町など計7市町村に帰還困難区域が設定。復興庁によると、全国で今なお約2万8千人が避難を余儀なくされている。、東京電力福島第1原発事故2011年3月11日に発生した東日本大震災の地震と津波で、東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)の6基のうち1~5号機で全交流電源が喪失し、1~3号機で炉心溶融(メルトダウン)が起きた。1、3、4号機は水素爆発し、大量の放射性物質が放出された。の発生から2025年で14年を迎えました。新潟日報は事故後、原発問題に関する多くの企画を紙面に掲載してきました。事故の当事者である東電はいま、新潟県内に保有する柏崎刈羽原発新潟県の柏崎市、刈羽村にある原子力発電所で、東京電力が運営する。1号機から7号機まで七つの原子炉がある。最も古い1号機は、1985年に営業運転を始めた。総出力は世界最大級の約821万キロワット。発電された電気は関東方面に送られる。2012年3月に6号機が停止してから、全ての原子炉の停止状態が続いている。東電が原発を再稼働させるには、原子力規制委員会の審査を通る必要がある。7号機は2020年に全ての審査に「合格」した。の再稼働東京電力福島第1原発事故を踏まえ、国は原発の新規制基準をつくり、原子力規制委員会が原発の重大事故対策などを審査する。基準に適合していれば合格証に当たる審査書を決定し、再稼働の条件が整う。法律上の根拠はないが、地元の自治体の同意も再稼働に必要とされる。新潟県、柏崎市、刈羽村は県と立地2市村が「同意」する地元の範囲だとしている。を目指しています。原発問題を考える際の参考になれば、との思いから過去に紙面に掲載した企画の一部をデジタルプラスで紹介します。このページでは「再考原子力」シリーズの歴史編「電力首都へ〔前編〕源流」をお届けします。
[再考原子力]シリーズとは
2013年から15年にかけて「新潟日報」朝刊で掲載したシリーズ企画「再考原子力 新潟からの告発」の一部を掲載します。東京電力福島第1原発事故を経験しながら、日本の原子力政策の本質的構造はなぜ、変わらないのか―。柏崎刈羽原発がある新潟県から、置き去りにされてきた課題について、歴史を含めて多角的に検証し、地方が背負わされてきた矛盾を告発した企画です。年齢や肩書き、記載内容などは朝刊掲載当時のものです。
連載企画「再考原子力・新潟からの告発」の歴史編では、東京電力の前身の「東京電灯」が設立された1880年代から、国が柏崎刈羽原発の設置を認めた1970年代までを、前、中、後編に分けて取り上げる。前編は、新潟県が東京の電力供給地として位置付けられた源流をたどる。(文中敬称略、全18回)
<1>90年前、県境を越えて初送電

第一次世界大戦後の不況が続く1922(大正11)年の10月20日。夜が明けつつある長野県境近くの集落、大割野(現・新潟県津南町)に突然、ごう音が響いた。
<2>東京へ初めて送電した「信越電灯」

新潟県内から電力を初めて東京へ送電した中津川第2発電所を運営していた信越電力。その創立時の第1回営業報告書が、東京大学経済学図書館に残っている。
<3>ビジネスチャンス

信越電力が新潟県から初めて首都圏に送電した1922(大正11)年からちょうど40年前。親会社となる東京電灯が創業に先立ち、一大デモンストレーションを行った。
<4>長距離送電で新潟が射程に

山梨県大月市に「東京送電水力発祥之地」と書かれた石碑がある。市内を流れる桂川で水力発電を行う東京電力駒橋発電所をたたえたものだ。
<5>民間で進む電源開発

「無尽の水力を開発して、石炭動力に代ふるは国民経済上きわめて必要なる事」。1910(明治43)年4月23日、新築したばかりの「ルネサンス式」の逓信省庁舎。集まった地方官を前に、水力発電の開発を推進する訓示が響いた。
<6>適地の中津川に地元が注目

新潟県から首都へ初めて電気を送った中津川第2発電所(津南町)は2014年1月下旬、深い雪の中にあった。無人化された建屋内はひっそりとし、発電用水車の軸の回転音が控えめに響く。
<7>地元発展を掲げ開発主導

1910(明治43)年に中津川での水力開発に目を付けた十日町(現在の新潟県十日町市)の有力者たち。その中心にいたのは、戦後、新潟県の初代民選知事に就いた岡田正平だった。
<8>新会社で大規模な発電計画

第一次世界大戦に伴って国内の工業生産が拡大していた1916(大正5)年、新潟県津南町を流れる中津川での大がかりな水力発電計画が明らかになった。
<9>新興財閥の「鈴木商店」、新潟県の開発狙う

「当地に有力なる発電場所あるを聞き、実地調査をいたすべく技師と同道してきたのである」。1916(大正5)年10月24日、十日町(現・新潟県十日町市)の料亭で、大柄な男が地元有力者たちを前に熱弁をふるった。
<10>大規模な開発競争に東電が参入

信濃川は上流の長野県では「千曲川」と呼ばれる。この千曲川から取り込んだ水を、新潟県津南町の信濃川沿岸まで水路で導いて発電する計画が持ち上がった。
<11>思わぬ地元外しで“円満解決”

第一次世界大戦による好景気は開戦から4年たった1918(大正7)年も続いていた。工業の発展に伴って都市部での電力需要が高まり、供給力不足が懸念された。
<12>地方からの供給を国策化

平民宰相、原敬による第一次世界大戦の終戦を告げる演説で始まった1919(大正8)年の帝国議会。発電用水利権をめぐる3月の委員会審議で、議員から地方批判とも取れる発言があった。
<13>開発に多額の借金

中津川沿岸の住民たちが水力発電への期待に沸いたことがある。1919(大正8)年5月1日、中津川下流の河岸で中津川補助発電所(新潟県津南町)の起工式が行われ、住民数千人が集まった。
<14>湯沢町でも県境を越えて送電

信越電力中津川第2発電所(新潟県津南町)が新潟県から初めて首都圏に送電した4カ月後、県境のもう一つの水力発電所も首都圏へ電気を送った。湯沢発電所(湯沢町)だ。
<15>「何に使うか」、長岡市に工場誘致

新潟県初の水力発電事業は、発電所着工直後に主導者であった長岡市の実業家、山口権三郎を失った。後を継いだ息子、達太郎は事業を続けるべきかどうかの選択を迫られた。
<16>需要・供給側共に業績悪化、東電に身売り

北越水力電気(新潟県長岡市)の社長、山口達太郎が新たな水力発電地点として着目した清津川は、日本三大峡谷の一つの清津峡で知られる急流だ。達太郎は、その群馬県境に近い三俣村(現・新潟県湯沢町)で取水する計画を立てた。
<17>電力会社の統合も国策に

湯沢発電所を建設中の日本水力電気(新潟県長岡市)が東京電力の前身の東京電灯に吸収された1922(大正11)年ごろ、全国でも電力会社の合併が進んでいた。その影に「大塊」と号した巨漢の政治家がいた。
<18>東京では供給過剰、使い道に悩む

大正時代に新潟県に建設され、首都圏へと送電した中津川第1、第2、湯沢の3発電所を合わせた最大出力は7万キロワット強に上る。1922(大正11)年の首都・東京の需要をほぼ賄える電力だった。
[再考原子力]のラインナップ
第1部 狙われる地方 放射性廃棄物処分

政治、行政、電力業界がこれまで先送りしてきた大きな課題が核のごみの最終処分問題だ。原発と同様に、処分地も地方に担わせようとする動きがある。
第2部 置き去りの日本海 地震津波研究

柏崎刈羽原発をはじめ、日本海側には国内のほぼ3分の2の商業用原子炉がある。しかし、太平洋側に比べ日本海側の地震研究は遅れていると指摘される。
第3部 変わらぬ構造 再稼働論議

世界史に残る原発事故が起きた日本で、原子力災害対策の不備はどう議論され、見直されたのか。不安を抱く地元の声は政策に反映されたのか。
第4部 もう一つの道 脱 原発依存

政府は一定規模での原発維持を目指している。本当にその道しかないのか。原発に頼らない「もう一つの道」を模索する欧州各国を訪れた。
歴史編・電力 首都へ[前編]源流

柏崎刈羽原発や福島第1、第2原発は、首都・東京への電力供給を長年担ってきた。始まりは、大正時代までさかのぼる。
歴史編・電力 首都へ[中編]戦後再編

戦後、電気事業再編のうねりの中で新潟県が首都の電源地として固定化されていく経過を追う。
歴史編・電力 首都へ[後編]巨大基地

首都圏のための巨大電源基地・柏崎刈羽原発が、都心から200キロ以上も離れた日本海側の地に設置された経緯と背景とは。
資料編

核のごみ最終処分地はどう選ばれるか。プロセスを紹介するほか、「地元同意」を巡る自治体アンケート(2014年)を詳報する。