
「第2部 置き去りの日本海」紹介
原発の安全性を議論する前提として重要な地震地下で起こる岩盤がずれ動く現象。プレート(岩盤)が動き、押したり引いたりする力が加わることで、大地にゆがみが蓄積され、ゆがみが限界に達すると断層面を境に急速にずれ動く。ずれの衝撃が地面に伝わり、地面が揺れたものを「地震動」や「地震」と呼ぶ。震動の強さは「震度」で表す。観測する地点によって「震度」は異なる。研究について、多くの研究者が太平洋側に比べて日本海側は遅れていると指摘している。全7基で出力世界最大の東京電力柏崎刈羽原発新潟県の柏崎市、刈羽村にある原子力発電所で、東京電力が運営する。1号機から7号機まで七つの原子炉がある。最も古い1号機は、1985年に営業運転を始めた。総出力は世界最大級の約821万キロワット。発電された電気は関東方面に送られる。2012年3月に6号機が停止してから、全ての原子炉の停止状態が続いている。東電が原発を再稼働させるには、原子力規制委員会の審査を通る必要がある。7号機は2020年に全ての審査に「合格」した。(新潟県柏崎市・刈羽村)をはじめ、福井県には計13基の商業用原子炉があるなど、日本海側には国内のほぼ3分の2の商業用原子炉が立地している。それなのに、なぜ日本海側の地震研究は遅れているのか。「再考原子力 新潟からの告発」第2部は、地震研究にも付きまとう太平洋側との格差を問う。(文中敬称略、全10回)
<1>予知計画、新潟地震の衝撃が契機

1962年、東大地震研究所の学者ら3人が連名で文書を発表した。日本の地震研究を方向付けたこの文書は、「ブループリント」と呼ばれる。観測所などを整備し、予知に向けた基盤構築を提案する「青写真」がうたわれていた。
<2>予算獲得に「予知」利用

「ブループリント」が目指したような地震の時間や場所、大きさを詳細に特定した地震予知は、いまだに実現できていない。予知が実現してこなかった中でも観測網整備は進められ、着実に予算を増やした。
<3>成果望めず学者敬遠

「何で日本海側のような地震が少ない地域を研究するんですか」。日本地震学会の元副会長は、気象庁の職員時代、同僚からの問い掛けに戸惑った。この疑問には、地震学に携わる多くの研究者の本音がにじみ出ていた。
<4>新潟地震による関心、長続きせず

1964年の新潟地震は日本海側の地震研究に目を向けさせる好機だったと捉える研究者は少なくない。しかし、その関心は長続きしなかった。翌65年に長野県北部で松代群発地震が発生したからだ。
<5>旧帝大が相次ぎ観測所を設置 県内で「縄張り争い」

日本の地震学をリードしてきた東京大学に代表される旧帝大が、競い合って各地に地震や地殻変動の観測所を設置した時期があった。新潟県に「縄張り」を築いたのは、太平洋側の東京大と東北大(仙台市)だった。
<6>地方大学に研究費回らず、旧帝大と大きな差

富山大で教授を務めていた研究者は2002年、京大防災研究所に移って驚いた。多数の研究者を抱える大所帯の京都大と規模の違いはあるにせよ、富山大と比べて研究予算が桁違いに多かった。
<7>日本海東縁新生プレート境界説、「日本海中部」で注目

太平洋側に地震研究や観測網が偏る中で、日本海側への関心を高める学説が1983年2月に発表された。「日本海東縁新生プレート境界説」だ。発表から3カ月後の5月、説の注目度を高める出来事が起きた。
<8>大地震が起こるまで進まなかった調査

「日本海東縁新生プレート境界説」が提唱された10年後の1993年7月、その境界とされる周辺を震源とする大きな地震が起きた。国は翌94年度、ようやく重い腰を上げる。
<9>乏しい知見、「調査必要」と原子力規制委

原発の新たな規制基準で、地震津波研究が不十分とされる日本海側をどう考慮するべきか-。2012年11月、原子力規制委員会の新基準策定に向けた有識者検討チームで、議論が交わされた。
<10>耐震性・津波対策の評価、根拠に課題

東京電力柏崎刈羽原発の周辺で、大がかりな観測調査が行われた。柏崎刈羽原発は2007年の中越沖地震で当時の想定を大幅に上回る揺れに襲われた。観測は、その原因解明などにつなげる狙いがあった。
[再考原子力]のラインナップ
第1部 狙われる地方 放射性廃棄物処分

政治、行政、電力業界がこれまで先送りしてきた大きな課題が核のごみの最終処分問題だ。原発と同様に、処分地も地方に担わせようとする動きがある。
第2部 置き去りの日本海 地震津波研究

柏崎刈羽原発をはじめ、日本海側には国内のほぼ3分の2の商業用原子炉がある。しかし、太平洋側に比べ日本海側の地震研究は遅れていると指摘される。
第3部 変わらぬ構造 再稼働論議

世界史に残る原発事故が起きた日本で、原子力災害対策の不備はどう議論され、見直されたのか。不安を抱く地元の声は政策に反映されたのか。
第4部 もう一つの道 脱 原発依存

政府は一定規模での原発維持を目指している。本当にその道しかないのか。原発に頼らない「もう一つの道」を模索する欧州各国を訪れた。
歴史編・電力 首都へ[前編]源流

柏崎刈羽原発や福島第1、第2原発は、首都・東京への電力供給を長年担ってきた。始まりは、大正時代までさかのぼる。
歴史編・電力 首都へ[中編]戦後再編

戦後、電気事業再編のうねりの中で新潟県が首都の電源地として固定化されていく経過を追う。
歴史編・電力 首都へ[後編]巨大基地

首都圏のための巨大電源基地・柏崎刈羽原発が、都心から200キロ以上も離れた日本海側の地に設置された経緯と背景とは。
資料編

核のごみ最終処分地はどう選ばれるか。プロセスを紹介するほか、「地元同意」を巡る自治体アンケート(2014年)を詳報する。
1964年の新潟地震1964年6月16日午後1時ごろに発生した地震。新潟県沖から山形県沖に広がる断層が引き起こした。震源は粟島付近で、マグニチュードは7・5。新潟県内の最大震度は、当時の観測方法で震度5だった。新潟県の資料によると、県内の死者が14人、負傷者は316人。新潟市では液状化現象とみられる被害で県営アパートが倒壊し、完成したばかりの昭和大橋が崩落した。製油所の石油タンクで起きた火災が約2週間にわたって続いた。は日本海側の研究に目を向けさせる好機だったと捉える研究者は少なくない。
新潟地震発生直後に新潟や柏崎、佐渡の各地で、押し寄せた津波の高さを調べた元東大地震研究所講師の羽鳥徳太郎(91)=津波工学=は「新潟地震で日本海側への関心が一気に高まった」と思い起こす。
しかし、その関心は長続きしなかった。翌65年に長野県北部で松代群発地震1965年8月3日に始まったとされる地震。気象庁によると、すべての地震のエネルギーを合計するとマグニチュード(M)6・4に相当する。最大の地震は1966年4月5日で、M5・4を観測。有感地震は6万回を超え、1日当たりの有感回数は最大で585回。無感地震を含めた地震の総回数は、74万回を超えている。死者ゼロ。が発生したからだ。長期にわたり揺れが続き、有感地震は70年までに6万回を超えた。
気象庁OBの石川有三(63)=地震学=は「毎日揺れが続き、社会問題になった。インパクトが強すぎた」と分析する。松代群発地震は世界中から注目を集め、研究者の興味も新潟地震から離れていった。
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日本海側とは対照的に、研究が進む太平洋側の地震対策は加速している。国は発生確率が高く、国家中枢機能や経済への影響が大きい全国の地震を選定し、対応方針を次々に策定した。
2003年の東海地震南海トラフ沿いで想定される大規模地震の一つ。想定震源域は駿河湾から静岡県の内陸部で、予測される地震の規模はマグニチュード(M)8クラス。気象庁によると、1854年の安政東海地震の発生以降、大規模地震の発生がなく、地殻のひずみの蓄積が確認されていることから「東海地震はいつおきてもおかしくない」と考えられてきた。駿河湾から日向灘沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)に沿って発生する地震を南海トラフと呼ぶ。おおむね100~150年間隔で起き、政府の地震調査委員会はマグニチュード(M)8~9級の地震が30年以内に起きる確率を70~80%と算出している。を手始めに、09年までに東南海・南海、首都直下、日本海溝・千島海溝周辺海溝型、中部圏・近畿圏直下の各地震について定めた。全て太平洋側だ。
元日本歯科大新潟短大教授の阿部邦昭(71)=地球物理学=は「三陸地方を中心に太平洋側は比較的規模が大きい地震が...