「最後の日本兵」ー。ルバング島から1974(昭和49)年に帰国した小野田寛郎さんや、グアムから72(同47)年に帰国した横井庄一さんがかつてそう呼ばれた。だが、2人以外にも終戦を知らないまま、現地で“戦い”を続ける残留日本兵はいた。その中の1人が胎内市(旧黒川村)出身の皆川文蔵さん=帰国当時(39)=だ。60(同35)年にグアム島で発見されるまで、飢えに苦しみ続けた16年もの年月を生き抜いた。故郷へ帰還する様子を追った映像が、新潟日報社に残っている。([昭和100年の日報ニュース]随時掲載・第3回)

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 皆川さんは1941(昭和16)年に新発田歩兵第16連隊に入り、44(同19)年に豊橋の歩兵第18連隊に転属。その年の6月にグアムに上陸し、9月30日に戦死ー。これが当時、新潟県に存在していた記録だ。

 しかし、皆川さんは生きていた。

 米軍の圧倒的火力の前にグアムの日本軍は玉砕寸前だった。地形が変わるほどの空爆を受け、2万の日本兵はジャングルに追い込まれ、指揮系統が乱れて散り散りになった。米軍の敗残兵せん滅は徹底していた。現地住民も協力して日本人を襲撃。仲間は栄養失調でも倒れ、次々と死んでいった。

 やがて砲撃の音がやみ、飛行機が飛ばなくなり、島での戦闘が終わったことはうすうす気付いていた。ただ「見つかれば捕虜になるか殺されるか」と信じ続けた皆川さん。横井庄一さんらと行動をともにした時期もあったが、その後の多くの時間は山梨県出身の伊藤正さんと2人で励まし合って生活した。

 そして上陸から16年後。食糧を探しに出たところを現地住民に見つかり、2人同時期に米当局へ引き渡される。新潟日報社のニュース映画「今浦島の皆川文蔵さん」は、その知らせが新潟の姉に届くところから始まっている。

 ただ1人の肉親、姉のツルさんと電話で話す場面がある。周囲はおそらく“20年ぶりの感動の会話”を期待したことだろう。ただむなしく終わったのが、戦争の悲しさを物語る。当時の新潟日報紙面に詳しい会話内容が載っている。

ツルさん「もしもし、おめえ皆川けえ」

皆川さん「...

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