第8弾 阿賀路

流域のめぐみにふれ

新潟日報 2022/05/11

 阿賀野市と五泉市、阿賀町の魅力を発信する新潟日報社のプロジェクト「未来のチカラ in 阿賀路」。3市町と隣の福島県西会津町は阿賀野川とその支流を含めた流域のめぐみを共有しています。阿賀路をたどって各地を訪ね、人々が織りなす文化や歴史、産業、芸術を紹介します。今回は阿賀野市編です。

阿賀野市編
阿賀野川 豊かさ運ぶ

 日本有数の大河、阿賀野川の名を冠した阿賀野市。五頭連峰と阿賀野川に囲まれた越後平野のほぼ中央に位置し、人々は太古の時代から川の恵みを享受して発展してきた。現在の豊かな穀倉地帯も阿賀野川がもたらしたもの。川を介して人や物が行き交い、歴史を紡いできた。そんな歴史の痕跡を今も市内で見ることができる。

<阿賀野市>
人口/4万611人(2022年5月1日現在)
世帯数/1万4711世帯(同)
面積/192.74平方キロメートル
市の鳥/ハクチョウ
市の木/サクラ

県内最大の土偶
太平洋側との交易裏付け

 作業台の上にずらりと並ぶ土器や土偶。すべて2019、20年度に発掘調査が行われた阿賀野市百津の土橋遺跡の出土品だ。

整理作業が進められている大量の土橋遺跡出土品。ベテラン職員が土器のかけらをつなげて復元していく=阿賀野市保田
整理作業が進められている大量の土橋遺跡出土品。ベテラン職員が土器のかけらをつなげて復元していく=阿賀野市保田

 同市保田の整理事務所では現在、細かく仕分けされた大量の出土品の復元作業が行われている。ベテラン職員が、無数の土器のかけらを接着剤で慎重につなぎ合わせていく。

 市内には400超の遺跡があり、うち90が縄文時代のもの。土橋遺跡は縄文後期前半(約4000~3500年前)の遺跡で、非常に珍しい四角形に組まれた焼人骨の発見などで全国的な注目を集めている。

 出土品の中でひときわ目を引くのが、県内最大のハート形土偶の頭部だ。高さ8.5センチという大きさだけでなく、整った形と顔立ちをしている。

 実は市内にはもう一つ県内最大の土偶がある。13年に堀越の石船戸遺跡(縄文時代晩期前半、約3000年前)で出土した「遮光器土偶」の頭部だ。サングラスを掛けたような目が特徴的で、高さはこちらも8.5センチ。胴体部分があれば30センチほどになると推測されている。

阿賀野市内の遺跡から見つかった県内最大のハート形土偶と遮光器土偶の頭部=阿賀野市福永の市歴史民俗資料館
阿賀野市内の遺跡から見つかった県内最大のハート形土偶と遮光器土偶の頭部=阿賀野市福永の市歴史民俗資料館

 いずれも優れた土偶だが、本来盛んに作られていたのは東北や関東の太平洋側だという。二つの土偶は彼の地との交流を裏付けるが、遠い太平洋側とはどのように交流していたのか。

 鍵の一つと考えられるのが阿賀野川だという。市生涯学習課主幹の古澤妥史やすしさんは「縄文時代は阿賀野川を介した流通の始まりだった」と解説する。出土品から、舟や川沿いを歩いての移動でムラとムラとが交流、経由して情報や物を伝えていたとみられる。「原材料の調達から消費までの一連の流れ『サプライチェーン』が確立され、大物流システムをつくり上げていた」と考えられるという。

 そしてなぜ阿賀野に優品がやってきたのか。

 両遺跡に共通しているのが、多くの天然アスファルトの出土だ。「日本海側の石油産出地でしか採れない貴重な資源であり、特産品だった」と古澤さん。土器の補修や矢じりの固定などに使われ、特に海での漁労が盛んだった太平洋側では耐水性に富んだ接着剤として好まれたとみられる。石船戸遺跡からは塗るための道具も見つかっている。

 阿賀野市は、明治末期から大正初期にかけ、日本一の産油量を誇った新津油田(新潟市秋葉区)に近く、市内にも油田がある。今も「草水」「黒瀬」など石油に関わる地名が残る。「アスファルトを提供してくれる最重要地点だったため、大きな土偶の、かつ大事な部分である頭部が贈られたのではないか」とみる。

 実用品のアスファルトと祭祀さいし用とされる土偶の行き来は「単なる物々交換ではなく、ハードとソフトの交換だったのでは。遠くの人々との交流の象徴、絆の証しとして大きな土偶が大切な存在だったのではないか」と推察する。

 土橋遺跡のハート型土偶、石船戸遺跡の遮光器土偶とも、市歴史民俗資料館(福永)で公開されている。

 阿賀野川を通じた縄文の人々の営みに思いをはせてみるのも面白い。

暴れ川
氾濫 肥沃な土壌生む

 五頭連峰を背に約6500ヘクタールの広大な水田地帯が広がる阿賀野市。田んぼ道を車で走っていると、道路の左右で3メートルほど高さの違う田んぼを見つけた。注意深く市内を見ると同じような場所がいくつもある。

道路を挟んで3メートルほど高さの違う田んぼ=阿賀野市七島
道路を挟んで3メートルほど高さの違う田んぼ=阿賀野市七島

 田植えの準備をしていた七島の男性(63)に聞くと「昔この辺に阿賀野川があった跡だと聞いている」と話す。現在の阿賀野川からは離れた場所だが、かつてはここを流れていたという。

 「七島集落の裏側には船着き場があったようだ」と話すのは隣の月崎集落の農業、仁多見仁さん(72)。「近い場所でも深みのある湿田と乾田がある。代々苦労しながら少しずつ改善し、守ってきた」と語る。

 市生涯学習課主幹の古澤妥史さんは、土地の高低差について「低地は阿賀野川の旧河道で、高い場所は川のそばに形成された自然堤防」と解説する。同様の場所が、市内には今も多く残っている。地名に残る「島」や「山」は自然堤防などの高い土地を示すという。

 阿賀野川は「暴れ川」とも呼ばれるほど、氾濫を繰り返した歴史を持つ。曲がりくねって猛威を振るう姿は大蛇や龍にも例えられた。地図上に旧河道を重ねると=図参照=、いかに激しく形を変えてきたかが伺える。

 そもそも越後平野は、阿賀野川の度重なる氾濫から土砂が積み重なって形成された扇状地。約5000年前頃までに現在に近い状態になったとみられる。水害をもたらした一方で「何度も氾濫を繰り返したからこそ、肥沃(ひよく)な土壌ができた」と古澤さんは語る。

 中世には荘園が営まれ、江戸時代には新発田藩により新田開発が進められた。コメの収量が増えると幕府が直轄領(天領)とし、1746(延享3)年には水原代官所が置かれた。阿賀野市の元学芸員、遠藤慎之介さん(68)は「豊かな年貢米を安定して確保できる。大量の米を運ぶにも阿賀野川から新潟みなとを経て大坂、江戸へ行く水運の良さも重視された」と語る。

 豊かで交通の要衝でもあったことなどから、市島家や佐藤家といった全国屈指の大地主も誕生した。幕末に代官所に開かれた学問所「温故堂」は現在の水原小学校の前身になり、地域の教育の基礎を築いた。

阿賀野川頭首工
下越の穀倉地帯潤す

 農業、工業用水、水道水と、阿賀野川の水は現在も地域の暮らしに欠かせない。両岸に広がる穀倉地帯に安定して水を供給しているのが、阿賀野市小松の「阿賀野川頭首工」だ。

 農地の受益面積は阿賀野市全域のほか、五泉、新発田、新潟市の一部の計約1万1700ヘクタールで、規模ともに県内最大。全国でも最大級の大きさを誇る。毎秒最大約45立方メートルの水を取水し、各用水路を通じてまさに“心臓”のように地域に水を行き渡らせている。

下越の穀倉地帯を潤す阿賀野川頭首工=阿賀野市小松
下越の穀倉地帯を潤す阿賀野川頭首工=阿賀野市小松

 阿賀野川頭首工は1963年に国営事業として工事を開始し、取水開始から今年で55年。「以前は支流や渓流からも水を引いていたため水量が安定せず、度々用水が不足していた」と北陸農政局信濃川水系土地改良調査管理事務所の中野利尚企画課長は語る。並行して左右岸に幹線用水路も造られたことで、安定的、効率的に用水管理ができるようになった。

 頭首工と幹線用水路のゲート類の操作は、阿賀野市小松にある中央管理棟で行われている。阿賀用水右岸土地改良区連合の職員が365日24時間体制で水位や流量を管理・監視。通常時は自動制御だが、増水時は上下流の状況を見極め手動で慎重に操作する。

 遠山浩一事務長は「今は田んぼに水が来るのが当たり前。農家が求める水量を安定して届けるのが使命だ」と力を込めた。