第8弾 阿賀路

新潟日報 2022/05/18
阿賀町と阿賀野市、五泉市の魅力を発信する新潟日報社のプロジェクト「未来のチカラ in 阿賀路」。3市町と隣の福島県西会津町は、阿賀野川とその支流を含めた流域のめぐみを共有しています。阿賀路をたどって各地を訪ね、人々が織りなす文化や歴史、産業、芸術を紹介します。今回は阿賀町編です。
阿賀町編
絶景橋 大河に映え
豊かな水量をたたえて流れる大河、阿賀野川。阿賀町の流域には、形状の異なる多くの橋が架かる。特に旧津川町から旧鹿瀬町の福島県境に至る区間では、つり橋やアーチ橋、トラス橋などバラエティーに富む。見た目も美しい橋の数々を目にすることができ、「橋の博物館」とも称される。一つ一つの成り立ちを聞くと、地域の産業や生活の移り変わりの足跡がみえてくる。
<阿賀町>
人口/9962人(2022年4月末現在)
世帯数/4414世帯(同)
面積/952.89平方キロメートル
町の木/スギ
町の花/ユキツバキ
まるで博物館
地域が歩んだ歴史の鏡
西洋の近代構造物のような赤いつり橋。阿賀町鹿瀬の町鹿瀬支所前にある鹿瀬橋は、趣のある鋼製の橋だ。
1952(昭和27)年に完成し、70年。人間でいえば古希。重量のある車の往来は78年にすぐ隣にできた鹿瀬大橋に譲ったが、歩行者用として今も現役だ。
■産業の橋
路面は積雪対策でメッシュ鋼材になっていて、緑色の川面が足の下に見える。流れは速く、耳には水のごう音が飛び込む。高所が苦手な人は足がすくみそうだが、「歩行者は鹿瀬大橋より鹿瀬橋を渡る人の方が多い。子ども連れや観光客も訪れる」と同支所行政係長の佐藤信彦さん(52)は話す。
流域の橋々は架かった時代がそれぞれ違う。旧鹿瀬町では、28(昭和3)年に鹿瀬発電所、翌29(同4)年に豊実発電所が稼働した。ダムができたことで水位が上昇し、阿賀野川の姿は大きく変わった。
鹿瀬橋は、同時期に興った昭和電工(元は昭和肥料)が町へ贈った寄付金を基に架橋されたという。津川、上川方面から工場へ通う働き手のための橋で「産業の橋」とされるゆえんだ。

■街道の橋
時は明治にさかのぼる。町で最も歴史が古い麒麟橋が誕生したのは1898(明治31)年。会津街道伝いに運ばれたコメや山からとる塩などの交易の中継点として栄えた津川に架けられた。
「4代目」となる現在の麒麟橋は、想像上の動物である麒麟の背を連想させるトラス構造が赤く印象的だが、初代は木橋だった。
郷土史を研究する「阿賀路の会」の齋藤正美さん(70)は「物流の幹線として重要だったのも間違いないが、時代は富国強兵。架橋は強兵の側面があった」と語る。仙台(宮城県)の陸軍第2師団が日本海側まで行き来する道との意味だ。
橋のない時代は、川幅に並べたたくさんの船に、板を渡して通った。こうした「舟橋」を最初に架けたのも第2師団と伝わる。しかし兵隊の荷物は重い。麒麟橋が架かる津川-角島を渡らなければ、北の新発田へ向かえない。「常設の橋は軍にとっても重要だった」と齋藤さんは語る。

■車社会の橋
豊実ダム上流には、菱潟大橋など色の異なるアーチ橋群が架かる。これらができたのは昭和50年代以降。高度経済成長でマイカーが浸透していったが、地形の特徴から道路が整備できず、旧鹿瀬町で最後まで「陸の孤島」といわれた菱潟集落にとって、菱潟大橋は悲願の橋だった。集落孤立の解消にもつながった。

隣の豊実集落に住む男性(80)と妻(78)は、自宅の庭から船渡大橋を眺め、「向こう岸のうちの林を提供して橋が架かった」と、“おらが橋”を指さした。渡し船の文化が最後まで残っていた地域。「渡りたいときは、対岸の船頭小屋に向かって『ホーー、ホイ!』と呼ぶんですよ。そうしたら『オーー、オイ!』と返事があって船が来た」と征子さん。笑顔で懐かしみながら、「橋ができた後は人が少なくなったな」とぽつり。橋の完成とともに訪れたモータリゼーションの波が、地域の姿を大きく変えた。



多彩な姿 複雑な構造
過酷な地形物語る
阿賀町の流域にさまざまな形状の橋が残るのは、それだけ橋を架けにくい過酷な地形条件だということを物語っている。
国土交通省新潟国道事務所の水口直人・管理第二課長は「アーチ橋やつり橋といった複雑な構造は、橋脚を多く建てられない場所で採用される工法」と話す。
橋脚と橋脚の間の距離が長いほど、上に渡す橋桁(はしげた)はたわみやすくなる。阿賀町流域は両側の山が
「橋は当然、技術者がデザインするが、半分は地形やその場所の条件で決まる」と、橋の構造に詳しい東京大の中井祐教授(54)=景観論=は言う。
橋の形状からはさまざまな情報が読み取れるという。中井教授は鹿瀬橋の写真を見て、「おそらく地盤が悪く、流れが急で、水深が深すぎる。橋脚を減らす発想から、つり橋にしたんだろう」と分析。歩行には問題ないが、「鋼材部分がすかすかしていて、戦後に不足していた鉄を節約したのでは」と、当時の経済状況を推察した。
弓形のアーチと真っすぐな桁が交差する「中路式ローゼ」型の菱潟大橋については「美しい形だ」と感心。この形式は、長い距離を渡すことができるアーチ橋の特徴を生かしつつ、地盤の弱い場所に建てにくいという弱点を、直線の桁橋構造と組み合わせることで克服しているのだという。
橋の工法は進化を遂げてきた。この流域について、中井教授は「激流に橋を架けるために繰り返された工夫の痕跡が残っている」と評した。
橋架ける夢かなえ
舟で通学 苦労胸に刻み
阿賀町役場に勤める江花一実さん(60)は、橋をめぐって移り変わる町の姿を見つめてきた一人だ。旧鹿瀬町職員時代には、福島県境に位置する

小、中学校時代は渡し舟で通学した。「当時はまだ舟が現役で、『公道』としての役割を担っていた。渡し舟で通学した最後の世代だと思う」と振り返る。荒天の日は舟が出ず、学校を休むことになった。吹雪の中、
高校卒業後は都内の大学で土木工学を学び、地元の建設会社に就職。憧れだった技術畑の道を歩み始めた。働くうちに「自分の手で橋を造りたい」という思いが募り、35歳で町職員に転身。町内の道路や橋の建設に携わる中で、40歳の頃に新渡大橋の架橋事業にも関わり、念願を果たした。

新渡大橋は、徳根と新渡の両集落を結ぶ全長170メートルのアーチ橋。町単独の事業として架橋され、合併前の2004年に完成した。それまで山道の行き止まりだった新渡集落から、対岸の国道459号に抜けられるようになった。「自分が関わった橋が架かり、住む人が喜んでくれる。技術屋
たもとには、豊実集落の彫刻家、佐藤賢太郎さん(73)が手掛けたレリーフがたたずむ。よく見ると、小さな字で「ある学童の作文」が刻まれている。「ふぶきのとき/鉄橋を歩いてわたりました/風がとても強くてつめたかったです/でもお母さんが手をつないでくれたので/少ししかこわくなかったです」。
実はこの作文、江花さんが幼少期に書いたもの。「橋のない不便さを味わってきた地域の記憶として受け止めてもらえたらうれしい」という思いを託した。