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新潟地震60年

新潟地震は災害報道の原点、想像力働かせた備えこれからも 発生から60年でシンポジウム・新潟市中央区
 発生から60年となった新潟地震の教訓を踏まえ、防災を考えるシンポジウムが11月9日、新潟市中央区の朱鷺メッセで開かれた。松本大学地域防災科学研究所の入江さやか教授が災害報道をテーマに基調講演。地震発生後に通信障害で情報が途絶えた中、放送や行政などが情報を集めて伝えた点に触れ「通信途絶は過去の話ではない。想像力を働かせて備えることが求められている」と呼びかけた。
[1964-新潟地震60年]復興計画わずか4カ月で策定、なぜこんなに早くできたのか 過程検証、後世に
[1964-新潟地震60年]新潟市東区で石油コンビナート火災訓練 60年前は石油タンクが燃え、鎮火まで2週間…
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[1964-新潟地震60年]教訓は地域ぐるみで次世代へ 新潟市秋葉区で防災訓練、市内全域の携帯電話にメールも
地震保険誕生のきっかけは新潟地震だった 田中角栄元首相が制度検討に関与 能登地震でも800億円以上支払い、専門家「事前にできる唯一の経済的備え」
[1964-新潟地震60年]「ここら辺がみんな田んぼだったんだ」畑を見渡し住民は言った…震源近くの粟島浦村、隆起で県内唯一の“コメ取れぬ村”に 6月16日で発生60年
[1964-新潟地震60年・写真ギャラリー]<下>あの時、新潟市は…(入舟地区、日和山、船見町、止まった時計塔…)
[1964-新潟地震60年・写真ギャラリー]<上>あの時、新潟市は…(東大通、川岸町、昭和大橋、萬代橋、船上から…)
[1964-新潟地震60年]山形県鶴岡市では幼児3人が園舎倒壊で犠牲に、追悼式で児童らが献花 「毎日一緒に遊んでいた弟が突然…」遺族も祈りささげる
[1964-新潟地震60年]戦場カメラマンが捉えた昭和の大災害<下>命をつなごうとする人々の姿、写真で世界へ ベトナム戦争「安全への逃避」でピュリツァー賞・沢田教一
[1964-新潟地震60年]戦場カメラマンが捉えた昭和の大災害<上>折れ曲がったビル、さまよう市民「爆撃された後のよう」 ベトナム戦争「安全への逃避」でピュリツァー賞・沢田教一
[1964-新潟地震60年]当時も現在も消防署のない新潟粟島浦村…島は自分たちで守る!地域防災を支える消防団 避難誘導、患者搬送支援…活動幅広く
[1964-新潟地震60年]傾いた校舎、崩れ落ちた昭和大橋…新潟市中央区・南万代小学校の児童が版画と文集で残した「あの日」の記録、未来へ語り継ぐ
[1964-新潟地震60年]新潟市が6月16日に全市一斉の地震対応訓練 震度6強の地震発生と想定、緊急速報メールなどを配信
[1964-新潟地震60年・版画ギャラリー]南万代小学校児童の記憶<5>一人が泣きくずれる みんな泣いた。一人が言った。「シャベルを持て、バケツを持て、復興だ。」
[1964-新潟地震60年・版画ギャラリー]南万代小学校児童の記憶<4>あの恐ろしい日、六月十六日。給食を食べ終わって一番調子がいい時だ。「ドドドド。」
[1964-新潟地震60年・版画ギャラリー]南万代小学校児童の記憶<3>ガスよ、来ない。電気が、来ない。僕達は、待っている。早くこい。地震が、憎い。
[1964-新潟地震60年・版画ギャラリー]南万代小学校児童の記憶<2>水をもらって階段をのぼる。ほんとうにつらい水くみです。地震なんて いやだな、ほんとうにいやだな。
[1964-新潟地震60年・版画ギャラリー]南万代小学校児童の記憶<1>あの時、風やかみなりよりも、もっと、もっとこわいものをしったのだ。