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新潟地震60年

新潟地震は災害報道の原点、想像力働かせた備えこれからも 発生から60年でシンポジウム・新潟市中央区
 発生から60年となった新潟地震の教訓を踏まえ、防災を考えるシンポジウムが11月9日、新潟市中央区の朱鷺メッセで開かれた。松本大学地域防災科学研究所の入江さやか教授が災害報道をテーマに基調講演。地震発生後に通信障害で情報が途絶えた中、放送や行政などが情報を集めて伝えた点に触れ「通信途絶は過去の話ではない。想像力を働かせて備えることが求められている」と呼びかけた。
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[1964-新潟地震60年]2日間駆け回った"焼け野原"で捉えた被災者の苦悩…ピュリツァー賞カメラマン沢田教一の写真30枚見つかる 東奥日報社(青森市)が保管
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